Epilogue
屋上から、オレンジ色に暮れる世界をぼうっと眺める。
給水タンクはこの学院内で一番高いところにあるのだから、当然そこから見る景色は、どの方向を向いても視界が遮られることはない。
どの方向を向いても、俺の目には茫洋とした景色しか映らない。
ここのところ、俺は毎日のようにここに来ていた。
そう。鳥井が転校していった日から。
『急な話なんですが〜、家庭の都合で〜、鳥井さんは今週いっぱいで転校することになりました〜。学院に来るのも今日が最後になります〜』
突然の発表に、クラスが俄かに騒然としだす。
こんなときでも間延びした雪ちゃんの口調だったが、今回ばかりはクラスを落ち着かせる効果を発揮しなかった。
ざわざわと、そこかしこから声が上がる。
別れを惜しむ声、声、声。
そんな中で、俺だけは冷静にその光景を見ていた。
鳥井が戦うと決意したときから、俺はこうなることも予想していたからだった。だから、クラスメイトに比べて冷静でいることができた。
『短い間でしたが、みなさんと一緒に過ごした時間は忘れません。本当にありがとうございました』
そう言って綺麗な仕草で頭を下げる。
みんなが席を立って鳥井に話しかけようとする。雪ちゃんもそれを止めようとはしなかった。一限目は雪ちゃんの授業だし、きっとみんなのやりたいようにさせてあげるつもりなのだろう。
俺は、そんなみんなを尻目に教室を後にした。
「今頃、あいつ何してるんだろうな」
浮かんでくるのは、当然のように鳥井のことだけ。
鳥井は今何をしているのだろう? 何処にいるのだろう?
そんな益体もないことが浮かんでは、思考の闇へ溶け落ちていく。
もし今の状態の俺を見てる誰かがいたら、きっと女々しいヤツだと思うだろう。俺だってそう思うかもしれない。それくらい、今の俺は傍目で分かるほどに落ち込んでいた。
流れていく風が冷気を運んでくる。それがさらに、俺に追い打ちをかけていた。
「はぁ……。莫迦か俺は」
みっともないったらないな。
自分でも、自分自身がここまで救いようがない人間だとは思わなかった。
会うことは確かに難しいかもしれないが、これから先絶対に会えないと決まっているわけでもない。連絡だって、ケータイがあるんだから取ろうと思えば取れるはず。
けど……。
俺の日常のピースは欠けたまま。
その足りないピースが大きすぎて、他のピースじゃ穴埋めできない。
たった一月足らずの付き合いだったけど、それでも大切なピースなんだと、改めて思い知らされた。
パチン、とケータイを開いて登録してある名前を呼び出す。
『鳥井』
電話番号とメールアドレス。それだけが、今俺が持つ鳥井との繋がり。その全てだった。
しかし、電話もメールもせず、ケータイを懐にしまう。
それから、両の手で頬を叩く。それで少しは自分を取り戻せたと思う。
いつまでも落ち込んでいるわけにはいかないしな。こんな姿、鳥井には見せられない。
梯子を下りて、コンクリートに飛び降りる。
夕日に背を向けて、非常階段へと向かう。
「考え事もいいけれど、そんなに注意力散漫じゃ怪我するわよ」
そんな俺の背中に、声が投げかけられる。
「今ここにいるのがわたしじゃなくて敵の保持者だったら、間違いなく殺されてるわね」
幻聴か、とも思った。俺が望むあまり、脳が有りもしない声を俺に聞かせているんじゃないかって。
けれど、こんなにはっきりした幻聴なんてあるはずない。
それによくよく見れば、俺の足元に見える影は二つある。
それじゃあ、本当に?
「鳥井、なのか?」
そう思ってはみても振り向くことはできずに、恐る恐る声だけを背中の向こうにいる誰かに投げかける。
その誰かは、靴音を鳴らして近づいてくる。
そして、伸ばした背中に軽い重み。
「ただいま、白河くん」
透き通って澄んだ声音が俺の名を奏でる。彼女が本来発せないはずの言の葉と共に。
嬉しいはずなのに、声が出てこない。「おかえり」なんて、いつも言ってる簡単な言葉のはずなのに、その一言が胸に詰まる。
「本当に、鳥井なのか?」
「そうよ」
短い肯定の言葉に、色んな想いが凝縮されているような気さえする。
「もう、ここには来ないと思ってた」
それ故、正直な思いが口を衝く。
だって、鳥井は戦うと言ったから。『光をもたらすもの』として戦っていくと思っていたから。
「戦う、って言ったでしょう。わたしは自分の戦いを始めるためにここに来たの。『光をもたらすもの』に依存して戦うのは止めて、ね。一度東京へ戻ったのは、諸々の手続きがあったからよ」
晴れ晴れとしたモノをその言葉に感じた。
「まだ神林さんが言っていたことの意味も分からないし、聖人会病院のことも調べきれてない。そして何より、ここには頼れるパートナーがいるもの」
「………」
「また危険な目に遭うかもしれないけれど、わたしと一緒に戦ってくれる? ナイトメアウィルスと、それに関わる全ての真実が明らかになるまで。――――そして、この手で戦いを終わらせるために」
答えは、決まっていた。望まれずとも、嫌がられようともそうするさ。望んでくれるなら願ったり叶ったりだ。
「当然だろ」
重みが消えて、目の前には懐かしい笑顔がある。
まだ一週間かそこらしか離れていなかったはずなのに、鳥井の笑顔を懐かしいと思う自分がいる。それは嬉しいことなのだろう。それだけ、日常として鳥井を見ているということなのだから。
「これからも、よろしくお願いします」
そんな言葉と共に差し出される右手。
「こちらこそ、よろしくな」
躊躇うことなく、その手を握る。
オレンジ色の世界の中で、俺たちは約束を交わした。それは険しい道程になるだろう。けれど、俺たちが生きる日常を守るために、戦い続けよう。
「そういえば、まだ言ってなかったな」
「何を?」
きょとんとした顔になる鳥井。
まったく。これからは、自分で言うことができた言葉に返される言葉くらい、期待してもいいのだと。
そのことを教えるように、諭すように、俺は――――
「おかえり、鳥井」
万感の思いを込めて、その言の葉を紡いだ。
呆けた顔が驚いた顔に変わり、驚いた顔が少しずつ、少しずつ涙でくしゃくしゃになっていく。けれど、それでも。
「ただいま、白河くん」