幸いにも、下の騒ぎは上階に影響を与えてはいなかった。

 かなりの対策がなされているのだろう。それは転じて、この地下施設のことは秘匿されるべきものであるとおじさんたちが考えているということに他ならない。当然と言えば当然のことだけど。

 侵入に使用した窓から駐車場へ出る。これだけ静かだと、地下で火事が起きているなんて分からないな。

「それにしても、どうして火事なんて……」

 鳥井が左手を口許まで持っていって、思案顔になる。

 確かにそう言われればそうだ。あれだけの研究施設なら、そういった防災設備も、事前対策も十分に施されていて然るべきなのに……。

「……人為的?」

「だとして、誰がそんなことをするの? この病院の人間を除けば、地下施設のことを知っている人間なんてわたしたちくらいのはず」

「でも、そっちの方がしっくりこないか?」

「それは、そうだけど」

「フツーは信じらんねえよなァ」

 何か、俺たちには分からないところで事が進んでいるような気がしてならない。本当は渦中にいる気になっているだけで、渦の外にいるのかもしれない。それくらい妙な感じがした。

 頭を振って変な考えをかき消す。俺たちのやるべきことはそんなことじゃない。

「それより、どうやって誘い出すか、だな」

「火事をそのまま伝えたら、患者さんも混乱してパニックになるでしょうし……」

「そうだなァ。いっそのこと正面突破はどうよ?」

「それもアリだ、な……って! 何でお前が!?

 いつの間にか、鍵が俺たちのすぐとなりまで来て、会話に参加していた。

 弾かれたように鍵から離れ、夢想具を向ける。

 だが、鍵は夢想具を出そうとはしない。あの対峙しただけで人を呑み込むような激しい殺気もない。

「オレァ抜けるからよ。その前にオマエらに会っておこうと思ってな」

 あっけらかんとそう言ってのける。

「……そんなこと、信じられると思う?」

 鳥井が視線に殺意を込めたのが感じられた。

 鳥井の言うとおりだ。それに、『光をもたらすもの』のメンバーはコイツに殺されたんだ。「俺は抜ける」なんてこと、納得できる道理はない。

「人を殺しておいて、そんなこと通るわけないだろ」

「おーおー。ひどい言われようだなァ。だがよ、オレたちとオマエたちは敵同士だ。殺しちゃいけねえ道理はねえよなァ。それに、オレァオマエに興味が湧いたんでな」

「……俺?」

 鍵の視線は俺に向けられていた。

「テメェとは真っ向から戦いたくなってよォ。元々、ここの任務はオレが着くハズのモンじゃなかったしなァ」

 鍵は大仰に頭を振ってみせる。

「そうだなァ。前回負けてんだし、その分の義理はちゃんと果たさねェとな。よし、テメェ白河、今人殺しつったな? なら、次会うまで殺しはしねえでおいてやるよ。それに、一つイイ情報もくれてやる」

 口の端を吊り上げた鍵は、悪戯を思いついた子供のような顔をしていた。

「いい情報?」

「ああ。『怠惰(アケディア)』を探せ。アイツはココにいる。そうすれば、テメェらが求めてることが分かんだろォよ。何せアイツは……っとォ、さすがに喋りすぎたかァ? くれてやるのはここまでだ。白河ァ、オレァオマエに期待してんだからよォ、アイツに負けんじゃねェぞ」

 病院の方向に顎をしゃくる。

 月明かりに、翻った白衣が照らし出された。

「鍵、貴様裏切る気か!」

「オレァ元々テメェについた覚えはねェよ。バーカ」

 おじさん……。

 その憤怒の形相は、昔の俺なら想像すらできないものだっただろう。今はもう、昔の表情の方が薄れてしまっているけれど……。

「それじゃあな、お二人サン。次に会うのを楽しみにしてるぜェ!」

 鍵はそう言うと、夢想具を具現化して夜の街に消えていった。

「待てっ!」

「今から行っても追いつけないわ。ここは村木を確実に倒すべきよ」

 反射的に飛び出そうとする俺を、鳥井が止める。

 確かに鍵のあの速度に俺がついていけるワケがない。ここで戦力を分断されるよりも、確実に戦える相手から戦うべきか。

「彰くん」

 改めておじさんと対峙する。

 己の夢想具である【邪器・禍津日神】を逆手に構えて、おじさんは俺を睨みつけてくる。昔から俺たちを見守ってくれていた暖かい眼差しは、もうどこにもなかった。冷たく見えるのは、思い込みじゃない。

「おじさん……」

 揺らがない。揺らぐはずなんてない。おじさんを倒して、もとの御歳市に戻すんだ。俺が知る、当たり前の日常に戻るんだ!

「『光をもたらすもの』の名に賭けて、あなたを倒します」

 大鎌を構えて、鳥井が宣言する。

「覚悟ッ!」

 鳥井の言葉が開戦を告げる。

 俺と鳥井は同時に地面を蹴った。以前地下で戦ったときと同じように、俺たちの最初の攻撃は二筋の斬撃での囲い。

 それに対して、おじさんも同じ行動を取ろうと構える。場慣れしている鳥井の鎌を短刀で防ぎ、場慣れしていない俺には蹴りを見舞おうとする。

 が、二度同じやられ方をするわけにはいかない。前回は覚悟が足りなかった。おじさんを倒すべき敵として認識しきれていなかった。だから、俺の剣の速度は鳥井のものよりも遅かった。今は、それがない。全くの同速。

「ぬぐ……ぅ」

 おじさんもそれを悟ったのか、バックステップすることで何とか避けきろうとする。その判断が功を奏した。俺たちの得物は、おじさんの白衣を少し刻んだだけに終わった。

「私を倒す、か。それに関しては、どうやら以前のような半端な覚悟ではないようだね」

 当たり前だ。俺は今ここでナイトメアウィルスの一切に決着をつけて、みんなが待つ日常に戻るんだ。もう、母さんたちの仇討ちのためじゃない。これから先の俺たちのために、全力で戦い抜くんだ!

「なら、私も本気でいこう」

 短刀を順手に持ち直したおじさんは、俺たちを甘く見ていたときとは比べ物にならないほどの殺気を放つ。戦闘は不得手だと言っていたが、それでも人を殺す覚悟を持つことに躊躇はないらしい。

 得体の知れない気配がおじさんから、いや、手にする夢想具から立ち上る。おじさんの夢想具の効力は『事象展開型』。その特性は効果範囲内の対象全てに作用すること。俺が感じる異様な気配はその発動の予兆なのか。

「それでも、やるしかない」

 気配に呑まれてちゃ勝てる見込みなんて永遠にない。まだ効力を使えない俺にできることは、臆せず真っ向から立ち向かうことのみ。スマートな勝利なんてできなくていいんだ。

 夢想具を両手で握りなおして突進する。

「ああああぁぁぁぁぁっ!」

 裂帛の気合を込めて剣を振り下ろす。が、そこにいたのはおじさんではなかった。

「な……っ!?

「くっ……!」

 キィィン!! と、剣と鎌が交叉した甲高い衝突音が、ぶつかり合った部分から響き渡る。

「あの距離で受けるとは、流石に『光をもたらすもの』の保持者だな。それに、あの位置から反応して抑えた君もね」

 何だったんだ、今のは!? 途中までは確かにおじさんが目の前にいたのに、今俺の剣を受け止めているのは鳥井だ。そんな馬鹿なことがあるわけない。

 けれど、実際に俺の目の前にいるのは鳥井であっておじさんじゃない。そんな馬鹿なことが起こってるんだ。

「なるほど。これがあなたの夢想具の効力。位置の入れ替えね」

「位置の、入れ替え?」

「そう。地下でのことを思い出して。目の前には感染者しかいなかったのに、突然鍵が現れた。それと同じことよ。自分とわたしの位置を入れ替えたの。神林さんも言っていたでしょ」

 そう言われれば、確かにおじさんはさっきまで鳥井がいたはずの場所に立っている。

「それじゃあ……」

「ええ。闇雲に突進しても勝ち目はないということね……」

 そういうことだ。

 いくら攻撃しても、その都度俺か鳥井と入れ替わられてはおじさんには届かない。

「気づいたかね。私の効力に死角はないんだよ」

 口角を吊り上げるおじさんは、始めの余裕を取り戻していた。

 確かにあの効力がある限り、おじさんは守りに関して鉄壁と言って差し支えないだろう。それに対抗する有効な手立ては、今のところ思いつかない。

 なら、届くまで手を出し続けるしかないんだ。

「それでも……。いくわよ!」

「ああ!」

 再び、二人同時におじさんに向かっていく。

 タイミングは計ったように同じ。鳥井は、右足を前に出して半身になった姿勢で突進し、左肩の上に寝かせた刃をおじさんの右肩から左足の対角線をなぞるように振り下ろす。一方俺は、その対角線を下から上へ斬り上げる。

 が、やはりというか、伝わってくる手ごたえは望むものではなかった。鋭い音のすぐ後に伝わってきたのは、骨を軋ませる鈍い痺れ。

「ぐ……っ」

 さらに、脳にも鈍い痛みが走る。その痛みに表情を歪めざるを得なかった。

「やはり君は弱い。その痛みが何よりの証拠だよ」

 ……聞かされてはいた。

 夢想具は意志や感情といった、言うなれば心の産物であり、その強度も心の強さで決まる。弱い夢想具と強い夢想具がぶつかり合えば、必然弱い夢想具のほうが押される。夢想具の受けたダメージが保持者にフィードバックされるのだ。最悪、心が壊れ植物人間のようになってしまうことすら有り得ると言う。

「君のように甘い日常を享受してきた者が、過酷な日常で生きてきた私たちと対等に渡り合えるはずがないんだよ!」

 両手を大きく広げ朗々と謳う。その姿は、さながら自分たちにとっての邪教徒を、神の正義の名の下に断罪せんとする聖職者のよう。

「……白河くん」

 鳥井の黒真珠のように深い色の瞳が、不安を灯して揺れている。その不安は尤もだろう。このまま続ければ、おじさんに届くより先に俺の夢想具が壊れてしまうかもしれない。それは、積極的にではなくとも自分で語ったことを自分の手で実行するに等しい行為。

 かと言って一対一にすれば、戦いに関与していないもう一人が不意の攻撃を受けることになりかねない。

 それに――

「それでも続けるんだ」

 俺も鳥井も、ただ見ているだけなんてできるわけがない。そうなるとできることはやはり一つだけ。向かっていくしかない。

 俺が駆け出し、一瞬遅れて鳥井も続く。結果は……同じ。俺が痛みを受けただけ。

 斬り下ろし、薙ぎ、斬り上げ、突き、また薙ぎ。色んな方向から繰り出す。

何度も何度も何度も何度も、同じことを愚直に繰り返す。おじさんに刃が届くことはなく、俺たちの体力と精神力が消耗していくだけ。脳内の痛みも、夢想具が打ち合わさったときだけではなく、既に継続的に脳内を支配している。視界が時折ぼやけるほどに、痛みは俺を激しく責め苛んでくる。

それでも、またおじさんに向かって剣を振り上げる。

「うああぁぁぁぁぁっ!」

「愚かな」

 今度は入れ替わることなく、自分の夢想具でおじさんは俺の斬撃を受け止めていた。そして時計回りに回転しつつ、俺の右脇腹から横一線に切り裂こうとしてくる。

(……マズい! この体勢じゃ避けきれない)

そう思ったが、回転は鳥井によって途中で止められていた。寸でのところで、鳥井が大鎌で弾いてくれたのだ。

「落ち着いて。手を出し続けることは、がむしゃらに振り回すこととは別よ」

「……ああ」

 そうだ。こっちは効力が使えないんだから、がむしゃらに攻撃することは、負ける可能性を自ら引き上げるのと同じ事。落ち着かなければ、見えているものすら見えなくなる。

「せめて、効力が使えれば…………って」

 何か一つ、重大なことを見落としている気がする。

「……鳥井の効力は?」

 そうだった。俺が使えなくても、鳥井には使えるんじゃ?

「わたしは……」

 けれど、鳥井は言い淀む。

「まさか……」

「…………そのまさかよ。わたしは効力を使えないの。《血塗れの処女(デス・エンジェル)》はを揶揄した蔑み。だから、勝つには今この場で効力を引き出すしかない」

一縷の希望が絶たれたようにも感じたが、鳥井の声に悲観的な響きはない。それだけで、俺も悲観せずにいることができた。

「ふ、ふふふ、ははははははははははっ! 『光をもたらすもの』の実戦部隊で効力を使えないとは……。二人揃って役立たずもいいところだな」

 おじさんは堪え切れないといった風に、肩を震わせる。確かに、俺たちは一人ではまともに戦えない半人前かもしれないけど……。

「それでも、意志があれば戦えるんだ!」

 痛みを振り払うように叫ぶ。

 効力が使えなくても、半人前であろうと、役立たずであろうと、俺たちは戦える。その意志を失わない限り。

「なら、その意志というものがどれほど脆弱か……教えてあげよう」

 そう言ったおじさんの姿が、視界から消える。

 おじさんにこれほどの速度が出せるわけがない。視界から消えるほどの速度は鍵ですら持っていなかったのだ。効力が他者との入れ替わりであるおじさんにそんな芸当は……。――――入れ……替わり?

 

 どうして今まで思いつかなかったのか。それは思い当って然るべきだったのだ。今まで行っていなかったからといって、どうしておじさんが俺と入れ替わることはないなんて馬鹿なことを思ってしまったんだ!

 その油断がどれだけ致命的なことであったのか、俺はすぐに知らされることになった。

「きゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!

「鳥井!!

 数瞬前まで俺が立っていた場所には、当然の如くおじさんが立っていた。

 そのすぐ横で、鳥井が右肩を押さえてしゃがみこんでいる。

「さすがに、あの距離では反応できても避けきれはしなかったな」

 いつの間にか、位置関係は元に戻っていた。

「く……っ!」

 俺も同じようにしゃがみこんで、鳥井の肩を抱く。左手で押さえたその下から流れ出る血が、白い服を赤で侵食していく。出血量から見てあまり深い傷ではなさそうだが、戦闘に支障が出ることは間違いない。

「俺を攻撃するんじゃなかったのかよ!」

 立ちあがった俺は、鳥井を背にして叫ぶ。やるかやられるかの二択のみが支配している世界である以上、卑怯なんて言葉は存在できない。けれど、おじさんの敵意の対象は俺だったはずだ。どうして鳥井を!

「だから攻撃しているだろう」

 おじさんは追撃を行うでもなく、悠然とした態度を崩さない。

「君のようなタイプは自分への痛みでは屈しないことが多い。それよりも、誰か近しい人物を痛めつける場面を見せたほうがよほど有効だ」

「そんなことのために……」

 右手に持つ夢想具をきつくきつく握りしめる。血が滲むほどでもまだ足りない。

 そんなことのために、鳥井を先に狙ったのか。鳥井の方が場慣れしているからといった、戦闘面で優位に立つためではなく、俺を苦しめるためだけに……。

「そんなことのために鳥井を……っ!」

「だが、実際に効果はある」

 その声に違和感を覚えて、咄嗟に身体を捻っていた。

 最初に感じたのは、焼けた鉄を体内に差し込まれたような、熱さと気持ち悪さ。そのすぐ後に、それが鋭い無数の針となって体内の血流を駆け巡った。痛みが身体中を縦横無尽に蹂躙する。

「あ――ぐっ!」

 反射的に、口から声にならない声が血とともに吐き出される。

 身体を支えることができず、前方へとよろける。

 その声の違和感に気づくのがほんの数秒遅れていたら、俺の心臓は短刀で穿たれていただろう。命拾いした代わりに臓器が傷ついたかもしれないが、それはこの際仕方ない。

「白河くん! ……っ」

 前のめりに倒れそうになる俺を、鳥井が抱きとめてくれる。不意に、少しだけ息を吐きだしたのを俺は聞き逃さなかった。自分の肩だって無視できる痛みじゃないだろうに、俺の身体を支えてくれたからだ。

「悪い……」

「喋らないで」

 服を破って作った包帯で傷口を押さえて巻きつけるだけの応急処置。それでも、何もしないよりはマシだろう。

「やはり、一度傷つけただけでは決定的な動揺までは持っていけなかったか。しかし、これで分かっただろう?」

 ポタポタと、短刀から血の雫が滴り落ちていく。月光を受けて白銀の輝きを見せる刃に、鮮やかな赤い色がマーブル状に拡がっている。

「君では私に勝つことはできない。効力を使えないだけでなく、敵への殺意を持てない者が、命のやり取りで勝てるわけがない」

 鳥井に肩を借りて、ようやく俺は顔を上げることができた。

 確かに俺は、今この時になってもおじさんを殺す覚悟を持てない。戦う覚悟、人を傷つける覚悟、誰かを護る覚悟。色んな覚悟を固めてきた。積極的に、或いは消極的に。それでも、誰かを殺す覚悟は持てない。それを持ってしまえば、俺は鍵やおじさんたちの同類になってしまう。

それに、誰かを殺すということは、その誰かの持ち得る可能性全てを無に帰すということ。自分のエゴのために、誰かの世界を壊すということに他ならない。そんなこと……。

「白河くん……。もう、いいの」

 支えてくれている鳥井の微かなつぶやき。消え入りそうなほど小さくて、無感情で。

「自ら殺意を持てない白河くんじゃ、村木は倒せない。けれど、それは誇るべきことよ。あの日常に還りたいんでしょう?」

「鳥井……」

 確かに、俺はあの日常へ還りたいと思っている。そのために戦っている。だから、人を殺す覚悟を持てなかった。だから、脅威は取り除きたいのに、その脅威を直接的に取り除きたくないといった半端な覚悟しか持っちゃいなかったんだ。人を殺す覚悟を持ってしまえば、自分が日常から弾かれそうで怖かったんだ。

 自覚したと同時に、死ねばいいと、そう思った。そんな甘い覚悟で俺はこの世界に飛び込んだのか? そんな甘い覚悟で約束を守りたいと思ったのか? そんな甘い覚悟で、鳥井のとなりにいたいと思ったのかよ!?

 過去の自分に対する明確な殺意。

 巫山戯るなよ、白河彰!

 お前の妹や友達との関係は、その程度で壊れるほど脆弱なものだって思ってるのかよ!? みんなを信頼してないにも程がある。誰に後ろ指さされたって、みんなだけは傍にいてくれるとどうして信じない!?

鳥井から離れて、一人で立つ。

「俺は、怖かったんだ。人を殺せばみんなが俺から離れていくようで……。当たり前だよな。誰だって人殺しの近くにいたいわけない。でも、あいつらなら傍にいてくれる。それを信じる。だから……」

 自分を落ちつける。脇腹から伝わる痛みで、集中が途切れそうになる。それでも、ココロの奥の奥の奥まで潜り込んで、感触を確かめる。

 還りたいと思う場所へ還れるように、もう一つ覚悟を決めよう。人が持ち得るあらゆる覚悟の中で最低な覚悟を。

「俺は還るんだ。おじさん、あなたを殺してでも!」

 戦うことは怖い。人を殺すことはそれより怖い。けれど、みんなのいる場所(にちじょう)に還れないことが一番怖い。

 だから恐れずに。いや、恐れを自覚してなおそれを呑み込んで。

 両手を握りしめる。そこには、同じだけの覚悟の重みがあった。右手から伝わってくる、「護る」という強い想い。左手から伝わってくる、「殺す」という強い想い。

 俺は今初めて、己の夢想具を手に入れた。

 夜空に瞬く星を鍛えたかの如き右手の白剣と、暗黒を型に流し込んだかの如き左手の黒剣。二剣一対のこの姿こそ、本来の姿。今まで覚悟がなかったから、半分だけしか具現できていなかったんだ。

「いつもいつも無理してカッコつけて、そうやって一人で立とうとするのね。パートナーにくらい、もっと頼ってくれてもいいんじゃない?」

 鳥井が俺のとなりに立ってくれる。初めて「同じ場所」に立てた気がした。

「これが俺の性分なんだ」

「そうだったわね」

 状況は、さっきからほとんど変わってない。むしろ悪化していると言える。だけど、鳥井と同じ場所に立てた今なら負ける気がしない。

「これからが本当の戦いよ。わたしたちは、還るんだから」

「ああ!」

 身体をたわませて、解き放つ。

 脳内麻薬が過剰に分泌されているせいか、痛みを感じないどころか身体能力が上がっている気さえする。

 

 いや、違う。これこそが俺の効力。カチリと、時計の針が時間を切り刻む音がする。

 時間の流れが少しずつ鈍化していく。俺だけが世界の一切を置き去りにして加速していく。絶対のものであるはずの時間の軛から、完全に乖離していた。

 

 一瞬を一秒に。一秒を二秒に。二秒を四秒に。少しずつ、だが確実に。

 

 目前のおじさんは、その速度に驚きすら浮かべることができない。

それも当然。俺の効力は鍵のような『自己強化型』ではないのだから。前回、恐らく美咲を助けたときもこれを使ったのだろうが、あのときは無理して行使したせいで気絶して分からなかったけど、今ならはっきり分かる。俺の効力は『事象展開型』だ。範囲内の時間を思うように操ることができる。

 スローモーションの世界で、右手の剣を振り上げる。

 その瞬間、時間の奔に呑み込まれた。俺の感覚も元に戻っている。それでも、十分すぎるアドバンテージ。狙いを定めて振り下ろした。

「ぬう……っ!」

 入れ替えを使わず、己の夢想具で防御しようとする。俺の攻撃なら今まで通り受け流せると判断したのだろうが、それは判断ミス。

 覚悟を決めた者の力を見誤った。俺の剣は傷つけることをもう迷わない。その分速度が上昇していた。

 おじさんは、俺の剣先をせいぜい数センチズラせただけに終わったのだ。高く響いた音の後に、確かな手ごたえが夢想具を通して伝わってきた。

「づあっ!」

 左腕に走る赤い線。俺が攻撃した証。

 おじさんは、まだ体勢を立て直すことができてない。追い打ちをかける絶好の機会。俺は左手の剣を水平に薙ぐ。鳥井はおじさんの右側面に回り込んで鎌を振り上げる。

「シャッフル……ッ!」

 しかし、攻撃が届くより数瞬早くおじさんの効力が発動した。

「私は、負けるわけにはいかんのだ!」

 入れ替えられたのは、俺と鳥井の位置。動作に入っていた攻撃を止めることは叶わず、俺も鳥井も体勢を崩してしまう。その俺の背中に、体重の乗った重い蹴りが見舞われた。

「が……はっ!」

 肺の中の酸素が吐き出された。続けて、短刀が右腕を切り裂く鋭く熱い痛み。

 そして、そのまま舞うように、蹴り足に使った左足を軸足にして、後ろ回し蹴りが鳥井に襲いかかる。

 避けることが叶わず、身体をくの字に折り曲げてしまう鳥井。そこに、短刀の一閃が続く。左の二の腕から、夜目にも分かる赤い血が飛沫いた。

「私は、私は負けるわけにはいかんのだ! ここで負けてしまえば、私の宿願は水泡に帰してしまう!」

 肩を怒らせ、目を血走らせて、おじさんも形振り構わず必死だった。

 だけど――――

「俺たちにだって、負けられない理由があるんだ!!

 おじさんが短刀を薙ぐ。それを右手の白剣で弾いて、左手の黒剣で右肩の付け根から真下に斬り下げる。同時に、鳥井の大鎌がおじさんの背中を斜めに斬り裂いていた。

「ぐあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!

 勝負あった。

 おじさんは絶叫を撒き散らしながら、アスファルトの上に、どう……と崩れ落ちた。けれど、まだ息はある。

「………」

 俺は、無言で左手の剣を持ち上げた。

 これで、最後。そう思った瞬間、色んな思い出が胸に去来するのを感じた。セピア色の写真のようなそのどれもが、笑顔で彩られていた。

 それでも、奥歯を噛みしめて、俺は左手を振り下ろす覚悟を決めた。

「そこまでしなくてもいいの。わたしたちは、勝ったんだから」

 しかし、それを実行に移そうとする前に、鳥井が俺の手を取って剣を引き下ろした。

「そう、だな」

 何故だか分からないけれど、涙が一筋頬を流れ落ちるのを感じていた。

 

「――――これで、終わったんだよな?」

「ええ。御歳市におけるミッションは、これで完遂よ」

 鳥井の口からその言葉が出た途端、身体中に疲労と痛みが津波のように押し寄せてきた。ずっと無理矢理無視していたせいか、それは本来の何倍もの量になっているようにも感じた。身体が重い……。鉛のような、とは言い得て妙だ。

「それにしても、二対一とはいえよく勝てたものね」

 嘆息する鳥井も、怪我はそれほどでもないのだろうが、疲労の色が濃い。

「……当たり前だ。約束は守るものだろ?」

 その言葉を紡いだ瞬間、俺の意識はゲームの電源を落としたように、無慈悲な無へと落ちていった。





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