「………」

 寒すぎる屋上にも、無機質な鐘の音は当たり前のように響いてくる。

 その音は、浅い眠りの中を漂っていた俺を覚醒させるには十分すぎる音量だった。しかし身体を持ち上げる気力すら湧かず、仰向けに寝転んだまま、嫌味なほどに晴れ渡った空を見上げるしかない。もう一度眠りにつけるほどの眠気もなく、右手で陽光を遮ることが精一杯の抵抗だった。

「もう授業は全部終わったわよ……」

 ほとんど遮られていなかった陽光がその声の主によって遮られ、俺までほとんど届かなくなる。右手を下ろして、頭の先に立つ人物を見上げる。制服の上にコートを羽織って、手には通学用のカバンを二つ持っていた。

「鳥井……」

 その人物は鳥井だった。といっても、屋上へ来る方法を知ってるのは俺と鳥井だけなのだから、俺でない限り鳥井でしか有り得ないのだが……。

 そして当たり前と言えば当たり前だが、鳥井も、いつものように凛とした空気を纏ってはいなかった。それでも、授業に出ることができる分だけ俺よりもマシには違いない。

「やっぱり気にしてるのね……」

 既に定位置と化した給水用のパイプに腰掛けて、鳥井はため息をついた。そんな弱々しい姿も、普段なら絶対に人前では見せないだろうに……。

「気にするなってほうが無理だろ……」

 身体を起こして、鳥井の左隣に腰掛ける。神林さんからの連絡はない。あの状態で助かることができたと思えるほど、俺も鳥井も楽観的な脳の作りはしていない。それ故、今の状態を作っていた。

 零れた声は、自分でも覇気のない声だと感じる。

 あれから三日。夢に魘されては飛び起きて、そのまま朝まで眠ることもできず、学院に来てもサボるばかりで授業に出ることすらできてない。屋上に逃げて来ては、眠気に負けて浅い眠りにつき、また魘されて飛び起きる。そんなことが続いていた。

 自分の莫迦さ加減にはほとほと愛想が尽きた。おじさんの言葉が本当かどうかも分からないのに、それに惑わされ、その結果として人一人の命を代償に持っていかれたかもしれないのだ。

「死ぬとすれば、俺のはずだったのにな……」

 そんな心境が、俺に自虐的な言葉を吐かせたのかもしれない。

 晴天には似つかわしくないその言葉でも、空は堕ちていくその言葉を受けても波紋一つ立てず、揺らぎを見せることはなかった。

 自分が何かをすれば、その結果として誰かが何かに見舞われる。そんなことは当たり前のことのはずだけど、人の命が失われるなんてことは今まで考えたこともなかった。今度のことは、そんな甘っちょろい考えしか持っていなかった俺への天罰なのかもしれないとも思った。

「そうね。本当ならあなたが死んでいたはずだった」

 風に弄ばれる髪を右手で押さえて、言葉を紡ぐ。

 誰かに言われると、そのことが一層重く圧し掛かってくる。それが一緒に戦っていた鳥井ならなおさらだった。

「けれど、見捨てたわたしにあなたのことは責められない……」

 俯いた鳥井の表情は、分からない。けれど、膝の上で組み合わされた両の手が震えていたことで、容易に想像できた。

(鳥井も、痛みに耐えているんだな……)

 状況だけで判断するなら、あれが最もベターな選択だったことは間違いなかった。けれど、俺たちは機械じゃない。感情があるんだ。状況だけで判断を下して、それを絶対の是として認められるワケもない。

「全ての鍵、か」

 神林さんは俺に何を伝えたかったのだろう?

 俺に何をしてほしいのだろう?

「もう一度、行くしかないのかもしれない」

 不意に、そんな言葉が耳に届いた。

「行くって、病院にか?」

「放っておいていいはずがないし、それに、やっぱり……」

 その続きは言葉にはならなかった。口に出した途端、それが真実になってしまいそうで躊躇したんだろう、代わりに別のことを口にした。

「動きがないのも、気になるし」

「………」

 そうなのだ。

 おじさんや鍵は、あれから接触してくるわけでもなかった。むこうからすれば、あれだけ重大なことを知られたのだから生かしておくわけにもいかないような気がするのだが、まったくモーションがなかったのだ。まあ、モーションをかけられていたら、今ここでこうして話していることも当然ないだろうが。

「そう、だな」

 それだけ言ったところで、胸に軽い振動が伝わってきた。ケータイに、着信?

「はい。白河です」

 できるだけ平静を装って電話に出る。

「鳥井です」

 鳥井にも着信みたいだ。

『あ、お兄ちゃんに深愛先輩?』

 電話の相手は美咲だった…………って、深愛先輩? てことは、あっちの電話も美咲と繋がってるのか?

鳥井を見ると、鳥井も同時にこちらに目をやっていた。どうやら間違いないようだった。多分、聡か先輩たちあたりの携帯からかけてるんだろう。

「ああ。何か用か?」

『何か用? じゃないよ! 雪ちゃんから聞いたよ。ここ何日か授業に出てないって』

「う……。それはだな……」

 マズい。上手い言い訳が思いつかない。正直に事情を説明するわけにもいかないし、どうしたもんかな……。

『二人が最近元気ないのと関係してるの?』

「いや、それは……」

 嫌な汗が背中を伝う。頭のいい美咲のことだ。何か少しでも下手を打てば即感づかれるだろう。もしかすると、ナイトメアウィルス等の突拍子もない話を除いて、おおよそのことを理解ってるのかもしれない。

『しーたん。何かあるならボクたちに相談してよ? ボクたちはしーたんたちの友達でしょ? ずっと二人で抱え込まれてるの見てると、ツライよ……。そりゃ役にたたないかもしれないけどさ、せめて荷物を一緒に背負うぐらいのことはさせてほしいな』

 葵先輩……。

『ワイかて、一応心配しとんのやで。これでも友達やからな。彰の自分勝手もよう知っとる。鳥井の冷たさもよう知っとる。けどな、偶には頼ってくれや』

 聡も……。

『俺たちには言えないこともあるだろう。言いたくないならそれでもいい。だが、話したくなればいつでも聞こう。二人は大切な友人だからな』

 悠夜先輩まで……。

『ねえ、お兄ちゃん。わたしは何も訊かないよ。お兄ちゃんは昔からそうだもんね。何か困ったことがあると一人で解決しようとするよね。あのとき、お母さんが死んだときもそうだった。

………………でもね、兄さん。わたしたちは兄妹だし、聡先輩たちは友人です。困難には一緒に挑みたいし、悲しみには一緒に涙したい。喜びなら一緒に笑い合いたい。荷物は一緒に背負ってあげたい。それができるから、したいと思えるから友人なんです。兄妹なんです。一人で解決しようとするのは、紛れもない強さです。けれど、ある意味で弱さでもあるとわたしは思うんです。差し伸べられた手を疑って、振り払って作られたその孤独は、きっといつか己を殺します。誰かを信頼することをせず、助け合うこともできない人なんて、その人がどれだけの社会的成功者であっても、例えそれが一国の大統領や総理大臣であろうと、わたしは認めません。

ねえ、兄さん、深愛先輩。人はその字の如く、支え合って生きていくんです。誰かに助けられて、助けてあげて。迷惑をかけられて、迷惑をかけて。愛されて、愛して。それを自覚することに勝る強さなんてないと思うんです。わたしは、それを教えてくれた人がどれだけ強いかを知っています。自分がどれだけ傷ついていても誰かを支えようとするその心は、きっとその人を支えたいと思う心を芽生えさせます。

だから兄さん、深愛先輩。二人で苦しんでください。一人ずつ同じ苦しみを抱えるのではなく、二人で一つの苦しみを抱えてください。必要なら――必要としてもらえるのなら、微力ながら、わたしもその苦しみを持たせてもらいますから』

 すぐに返答できる言葉なんて、俺は持ってなかった。それは鳥井も同じだったのだろう。屋上には、二人が涙を流す、その音なきオトだけがあった。

「……ありがとう」

 やっと音にできたのは、たったそれだけ。

 本当に、それ以外に言葉がなかった。美咲にも、聡にも、葵先輩にも、悠夜先輩にも。それに、ずっと覚えてたんだな、美咲は。俺が言ったことを……。

 支え合う強さなんて、いつの間にか忘れていた。いや、忘れようとするのだろう。人は誰しも、成長とともにそれを置いていく。俺も例外ではなかった。

だから、今こそ取り戻そう。

「美咲、それに聡も、先輩たちにも。俺たちから、一つ頼みがあるんだけど」

『うん。聞くよ。みんな聞いてるよ』

 鳥井に大きく頷く。

「……明日。明日の夜、みんなでモーントリヒトに行きたいの。わたし、まだ行ったことがないから。みんなで、このメンバーで行きたいの」

 それが、俺たちの頼みだった。

『分かりました。明日の夜ですね。遅刻したら、許さないからね。それじゃ』

 ケータイから、通話が切れたことを伝える電子音が繰り返される。

 みんな、もう何かあることは感づいているだろう。それでも、何も言わずに約束してくれた。それが、俺たちの望む支えだということを理解しているから。

 本当に、ありがとう。それ以外に思うことはなかった。

 後は、この約束を反故にしないようにするだけだ。

「――――俺は、戦う。立ち止まることだって、迷うことだって、逃げたくなることだって、この先何度でもあるかもしれない。けど、前に進み続ける。みんなが支えてくれるから、そう在ることができる。そして、ナイトメアウィルスに関わる全てのことを、俺は知ろうと思う。きっと、全てはそこにあるんだ」

 暮れていく空に誓うように、わざと声に出す。

 神林さんの命を差し出させたのは俺だから、その罪は生涯俺の中から消えることはないだろう。けれど、それを言い訳にして立ち止まっていていいはずがない。そんなこと、誰も望んじゃいないんだ。自分が弱いことの言い訳に他人を使って、苦難から目を背けるのは、もうやめにしよう。

「わたしも戦うわ。白河くんを巻き込んでしまったのはわたし。だから、白河くんの罪の在り処の半分はわたしにあるべきだもの。潰れそうなときも確かにある。泣きたいときだってきっとある。けれど、それでもわたしは目を開くことをやめない。目を閉じていて知ることのできる真実なんてないんだから」

 それに答えるように、鳥井も声を出した。

 俺の罪を半分持つと言ってくれた鳥井。それは、本当は間違っていることかもしれない。支え合うことの本質からは外れているだろう。けど、鳥井の本心であることは間違いなかった。それが、揺らぐことのない決意であることも。

 世界はもう、緞帳を下ろし始めている。日常という名の演劇に使われた役者と道具が片付けられれば、裏と表をひっくり返した演劇の幕が上がる。俺たちが演じる、脚本のない恐怖劇(グランギニョル)の幕が。舞台に上がるのは限られた者だけ。

「もしかしたら、死ぬかもしれないわね」

「そうだな」

 もう、恐怖は感じなかった。死なないと確信しているわけではない。神林さんのことを振り切ったわけでもない。けれど、二人一緒なら、例えどれほどの過酷があったって乗り越えて行けるはずだ。

「明日の約束を守るためにも、負けるわけにはいかないな」

「反故にしたら、どんな目に遭うか分からないものね」

 お互いに笑顔を見せ合い、数瞬の後、表情を引き締めた。

 目指すは聖人会総合病院。その人の尊厳を奪う場所(カタコンベ)

 今度こそ、今度こそ全てに決着をつけるために、俺たちは一歩目を踏み出した。

 

 

 歩く二人を、俺は遠目から見下ろしていた。

 反吐が出そうだ。

 支え合って困難を乗り越えられることなどあるはずがない。困難に立ち向かうのは己一人。頼れるのは己の力のみだ。

 誰かの力を頼るような甘い人間に、この一件に関わる資格などない。

 例えそれが“あの”白河彰であったとしてもだ。むしろ、白河であるならなおさら赦されることではない。

「………」

 お前だけがのうのうと普通の学生ごっこをやっていけることを、俺が、他の面子が赦すはずがない。そうだろう? “鍵の御子”。

 運命の歯車に押し潰されないよう、せいぜいもがき苦しむがいいさ。

だが、出来れば潰されてくれるなよ。俺がこの手で殺せなくなる。

「是非、俺の夢想具の血錆となってくれよ」

 その言葉は、晩冬の風にさらわれて溶けていった。

 

 

改めて見ると、大きな病院だった。月明かりに浮かび上がる白い威容は、本当なら畏敬の念を抱かせるに値するものだろうに、今は地下で使い捨てられた命のための墓標にしか見えない。いや、地下のための収容所(ゲットー)といった方が、より本質に近いのかもしれない。

ここら一帯では一番設備が充実していて、救急指定病院でもある聖人会総合病院。大勢の人の命を助け、また、大勢の人の命が失われた場所でもある。だがそれは、医療スタッフが全力を尽くしたその先にだけある結果のはずだった。例えそれが両極であっても、過程は同じはずだったのだ。

だが、今はそれが信じられない。この病院にあった『知られざる閉鎖病棟』の話や『いなくなる末期患者』の話。そんな眉唾な話が、実は本当のことだったのだ。地下にあった研究施設。人の命を救うはずの場所で、モルモットのように使い捨てられていく命。これほど命の尊厳を貶めることはない。

となりに立つ鳥井に視線を送る。

「その服装を見るのも久しぶりだな」

 鳥井は、最初に夢幻世界内で出逢ったときの、白い服を着ていた。

「御歳市(ここ)では突発的な戦闘が多かったから、ほとんどコレを着ることがなかったものね。あの悪夢溜まりの一件以来かしら」

「それって何かの制服なのか?」

「ええ。『光をもたらすもの(クルセイダー)』の戦闘服よ。といっても、本人の自由だから着ている人はそう多くないんじゃないかしら」

 鳥井は、意識を切り替えるために着ると言う。自己暗示のようなものなのだろう。

「なるほど。さて、それじゃどうやって病院から誘い出すか、だな」

 病院内には今も大勢の患者が入院している。その人たちの命を脅かすわけにはいかない。どうにかして二人を誘い出し、外で決着をつけなければならないだろう。

「もしくは、一度侵入して追ってこさせるかね」

 大別して、その二つだな。

 どちらも危険が伴うのは間違いない。だが、侵入する方が俺たちにとっても、入院患者たちにとっても、そして、おじさんたちにとってもリスクは高いだろうな。

「――――行こう。神林さんの最後も気になるし」

「そうね。虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うものね」

 方針は決まった。

 侵入するためには、まず西病棟に行かないといけない。地下施設への入口が一つだけということはないのだろうが、俺たちが知っているのは西病棟の階段の入口のみ。他の場所にあるはずの入口を探すよりは、西病棟から侵入したほうがよさそうだ。もちろんおじさんたちはそれを知っているだろうから何かの対策が施されているとも考えられるけれど、まずはそこから試す。

 病院内への侵入も、夜間用出入口は警備員室が近くにあるから使うわけにはいかない。ガラスを割って侵入するしかないだろうな。

「侵入したあとはどうする?」

「まずは二人を誘い出すことが最優先よ。もし二人が現れなければ……そのときは神林さんを探しましょ」

「……ああ」

 一階は入院のための施設ではないから、看護師による見回りも上階より行われる回数は少ない。ケータイを開くと今は22時。俺の記憶が正しければ、最初の見回りは21時で、その次が1時のはず。まだ3時間の余裕があることになる。時間的には申し分なかった。

 件の階段に一番近い窓にガムテープを貼り、肘を叩きつける。小さな破砕音を奏でて、侵入用の入口ができる。病院内の夜は驚くほど無音の世界だ。それを考えると焼け石に水かもしれないが、やらないよりはマシだろう。

 最初に俺が病院内に入る。続いて鳥井も窓も乗り越えて、俺のとなりに立った。

 西病棟の階段の防災扉、それを閉じたときに使用する出入用の小さい扉を押す。普通なら、後ろは壁なのだから開くはずがない。だが、ここは違った。重い音をたてて壁ごと押し開いたその先には、地下へと伸びる階段がぽっかりと口を開けていた。

「さすがにこれは盲点だよな」

「ええ。普通なら誰も気づかないでしょうね」

 その階段に明かりはなく、まるで地獄への入口のよう。ある意味間違っていないのは、皮肉だろうか。

「行くぞ」

「ええ」

 

 階段を降り切った先には、以前来たときと変わらない薄暗い廊下があった。しかし、前の名残はどこにも見られなかった。神林さんが流した血も綺麗に拭き取られていた。

「着いた瞬間囲まれるっていう最悪の事態はないみたいね」

 見える範囲に人の姿はなかった。

 以前と同じように感染者が湧いて出る可能性もあるから油断はできないが、ひとまず胸を撫で下ろす。

「ここからは一瞬の気の緩みも許されないわよ」

「ああ」

 意識を集中して、ココロの奥に深く沈みこむ。

 右手に夢想具の重みが加わる。

「無理はしないほうがいいわ」

「……そうだな」

 一度深く深呼吸して、気持ちを落ち着ける。今度は絶対に、前回のようなヘマはしない。そう、固く誓う。

そうして一歩、二歩と廊下を進む。

「開けるか?」

 階段から一番近いドアを指差して尋ねる。確かここは、むき出しの脳が調べられていた部屋のはず。

「止めておきましょう。今は村木たちを探すのが先だわ」

 鳥井の言うとおりのはずだった。俺たちには、今は他のことを気にしている余裕なんて微塵もない。

 …………はずなのに、どうしてか、ドアを開けなければいけないような気がした。何か抗いがたい不可視の力に強制されるようなその思いは、俺の中で段々と大きくなっていく気さえする。何かを後悔するときの感情に似ているそれは、俺をドアへと誘っていく。

「白河くん。軽挙は慎むべきだわ」

 鳥井の言ってることは正論だ。余計な行動が死を招くこの世界において、俺の行動は余りにも軽はずみなものにしか思えない。

 けれど、俺はドアの取っ手を握りしめて、一気に開け放った。

「――――っ」

「………」

 俺も鳥井も、その部屋の中にある物を目にして、言葉を失った。馬鹿々々しいかもしれないが、それが俺を呼んだようにさえ思えた。

 部屋のほぼ中央にある、のたくるコードのターミナルのようになっているベッド。その上には、物言わぬ骸と化した男性の姿があった。

 予想はしていた。覚悟も、していた。あの出血で生きているはずがないことは分かっていた。けれど、実際にそれを目にするのは、当たり前だけど辛かった。事実は覆るはずがないけれど、自分の目で見ない限りはそれがどれだけ決定的でも、十中八九、いや、九分九厘確定されていても、それは予想でしか有り得ない。目にして初めて、揺らぐことのないものになる。

「神林、さん……」

 神林さんの身体は傷だらけだった。恐らく俺たちが逃げた後も、おじさんたちが俺たちを追ってこれないように必死で足止めをしてくれていたに違いない。それを雄弁に物語っていた。

「……本当なら、荼毘に付すところだけど……」

 苦々しそうに、唇を噛みしめる鳥井。その気持ちは痛いほど伝わってくる。死してなおナイトメアウィルスに翻弄されなければいけないなど、考えるだけで吐き気がする。神林さんがどんな思いで『光をもたらすもの』に与していたのか、今となっては知る術などないが、死んでまで関わりたいと思っていたのだろうか?

「これは……」

「鳥井?」

 何かあったのだろうか? その声に振り返ってみると、鳥井が神林さんの遺体とは別のところを見ていた。

「それは?」

「神林さんの所持品ね。調査の途中、なのかしら?」

 少し離れた場所にまとめて置かれていた神林さんの所持品。手帳や財布くらいしかないな。まあ、重要な物があればこんなところに放置されてるはずもないか。

 

 それより……

「なあ、外騒がしくなってきてないか?」

「まさか、バレたのかしら?」

 少しだけドアをスライドさせて廊下を盗み見る。喧騒が一層大きくなった。慌ただしく走り回る白衣姿の人間。それにさっきより……明るい?

「火事だ!! 早く消火しないとマズイことになるぞ!!

 突然の事態に困惑しながらも、その事態を鎮静化しようとする声が俺たちにも届いた。

「マズイ。火事だ」

「そんな!!

 鳥井が反射的に後ろの神林さんの遺体を振り返る。運び出したいけど、そんな余裕はない。俺たちも早く逃げないとマズイだろう。それに、この混乱は千載一遇のチャンスとも言える。この火事を利用すればおじさんたちも外へ誘い出せるかもしれない。

「俺たちも行こう」

「でも!!

 鳥井はやはり神林さんを気にしている。無理もないことだけど……。

「……行くぞ。俺たちは神林さんに託されたんだ。俺たちがここで死にでもしたらどうする! 誰がアイツらを止めるんだ! それこそ神林さんを裏切ることになるんだぞ!」

 心苦しいのは俺も同じ。自分のせいで人が死んで、それを無視できるほど無神経でも薄情でもないつもりだ。けれど、だからこそ、俺たちには為さねばならないことがある。託された想いを捨てるわけにはいかない!

 遺体を見て、もう一度その思いを新たにすることができた。

「……そうね。ごめんなさい。でも、これだけは持っていかせて」

 鳥井は手早く遺品を集めて袋に入れる。せめて遺品だけでも遺してあげようというのだろう。

「神林さん。ありがとうございました」

「ありがとうございました……」

 俺たちは、部屋を去る前に、頭を下げた。

 あなたのおかげで、俺は生きています。それを生涯忘れません。

「上の様子次第では、かなり離れないと戦闘できないかもしれないし、すぐに戦闘になるかもしれない。夢想具は、出したままでいきましょう」

 簡素な別れを済ませた俺たちは、一度大きく息を吸い込んでドアから飛び出した。





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