「ふわ……」
一階に降りると、キッチンのほうから美咲が作る朝ご飯のいい匂いがしてきた。
「おはよう、美咲」
キッチンを覗くと、美咲が制服にエプロン姿でキッチン狭しと動いていた。我が妹ながら、朝からよく働くやつだと感心せざるを得ない。
「おはよう、お兄ちゃん。朝ご飯の準備ができるまでもうちょっとかかるから、先に準備してきちゃって」
「了解」
いつもと同じ朝のやり取り。なのに、今日はやけにいい気分だった。久しぶりに夜の警邏をせずに眠りについたからかもしれない。
松永先輩の件が一段落したので、鳥井と相談の上で数日の間休息をとることになったのだ。最近はずっとバイト→警邏か、進学塾→警邏のパターンだったので、少しの睡眠だけでは疲れが抜けきれていなかった俺にとっては願ってもないことだった。
ちなみに松永先輩は、今は入院している。幸い命に別状はないが、二度とウィルスに感染しないようにするための手術を施すと神林さんが言っていた。その話を聞いたときはそんな手術があることにも驚いたが、そもそもそんな患者(クランケ)を受け入れる病院がこの御歳市にあったこと自体に驚かざるを得なかった。
「ふわ……ぁ」
洗顔と着替えを済ませてダイニングに入る。
「お待たせ。早速食べよ♪」
今日の朝ご飯は炊きたてのご飯にワカメと豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたしと焼鮭と、旅館で供される朝ご飯といった風な和食だった。
と大仰に言うほどでもなく、白河家の朝は大抵和食である。両親が共に和食派だったため、その子供である俺たちも自然と和食派になっていただけのことだ。とは言っても、美咲が料理好きなおかげで和食一辺倒になることはない。和洋中なんでも作る。最近はイタリア料理を練習しているのか、三日に一度は必ずパスタが夕食の食卓に上る。
「なあ、美咲」
口内の物をお茶で流し込んでから口を開く。
「何、お兄ちゃん?」
鮭の身をほぐすのを止めて顔を上げる。
「夕ご飯だけど、そろそろパスタ以外にしないか?」
「お兄ちゃん、パスタ嫌いになった?」
「嫌いになったわけじゃないけど……」
さすがに三日に一度食べていれば、ソースや味付けがいくら変わっていても飽きてくる。
「う〜ん。確かに最近は練習のせいでパスタ多かったもんね。じゃあ、今日は別のメニューにしよっか」
美咲はあっさりと俺の提案を受け入れてくれた。
さすが、できた妹である。
「ああ。頼む」
「そのかわり、放課後にお買い物付き合ってくれるよね?」
「分かった。待ち合わせは正門でいいよな?」
「うん」
美咲と並んで通学路を歩く。
家から学院までは徒歩で15分程度。毎日長時間通学のために満員電車に揺られている同年代の者たちに比べると、かなり恵まれていると思う。
吐く息は未だ視界を白く染めるが、冬ももう終わろうとしている。そこかしこに春が息づいている気がする。
「寒いねぇ」
……となりに歩く美咲以外は。
美咲は制服の上にきっちりコートを着込んでいた。
「そうでもないと思うけどな」
「お兄ちゃんがおかしいんだよ」
美咲の吐く息が白く揺れていた。
「そう言えば、もうすぐ葵先輩や悠夜先輩も卒業だね」
「そうだな。知り合ってから一年半くらい経つけど、あっという間だったな」
「わたしが中学生のときだったもんね、初めて先輩たちが遊びに来たの。ちょうど一年くらいなのに、もっと前から知ってた気がする。寂しくなるよね、先輩たちが卒業したら」
「だな」
葵先輩や悠夜先輩は、当然ながらこの春に学院を卒業していく。
俺たちのように友人関係にあった者は勿論のこと、学院の関係者なら誰もが寂しがるだろう。なんといっても、ラウンジの明るさは葵先輩に依るところが大きかったからな。
(そう言えば、俺が先輩たちと知り合ったのもラウンジだったっけな)
忘れかけていた記憶が甦る。たしか……
「お客様、困ります!」
ラウンジにウェイトレスの声が響く。広いラウンジにあって、その声は余程遠くまで届いたらしい。騒がしかったラウンジが、しん……と静まり返った。
「同じ料理なら誰から届けても同じだろうが! 俺は腹が減ってんだよ!」
どうやら、料理が届かないことに業を煮やした男子生徒が、ウェイトレスに文句を言っているらしかった。
「この料理を待っている人がいるんです。お客様が注文された料理もすぐにお作りしますから」
「だからそれが待てないって言ってんだろ!」
ウェイトレスは必死に宥めようと努力しているが、件の男子生徒は聞く耳持たずと言った感じだ。
ウェイトレスはいつしか涙目になっていた。しかし、男子生徒は暴言を吐き続ける。正直に言って、かなり気分が悪かった。心の内で悪態をつく。と同時に、どここから小さく「うるさいなぁ」という声が聞こえてきた。
「誰だ! 今言ったやつ!」
それを聞き咎めた男子生徒の顔が紅潮する。なんだか猿っぽい。
「お前か!?」
二人を取り囲んでいた野次馬の一人に掴みかかる。眼前で猿紛いの顔に怒鳴られれば怖くもなるだろう。因縁をつけられた野次馬は、「違います」と弱々しく答えることがやっとだった。
さすがに我慢の限界だった。
「じゃあ誰だ!?」
その咆哮に答えが返る。
「俺だ」「ボクだ!」「俺が言った」
三人同時に。
一人は少し茶色がかった髪にリボンを結んだウェイトレス。もう一人は眼鏡をかけた痩身のウェイター。最後の一人は、俺だった。
野次馬の囲いの中に自ら入った俺たち三人は、お互いの顔を見合せて吹きだした。自分以外にも酔狂な人間がいたという、そんな感じだった。
……っていうか、これならわざわざ出なくてもよかったな。
そんなことを考えているうちに、ウェイトレスが一歩前に出る。
「ラウンジはみんなが楽しく食事するところ。そんなことも分かってないなら出て行って」
ラウンジの出入口を指さしてキッパリと言い放った。だが、それは火に油を注ぐに等しい行為だった。臨界点を超えた男子生徒がウェイトレスに向かって突進していく。
が、ウェイトレスの前に、ウェイターが立ち塞がった。
「女性に手を上げようとするとは、男の風上にも置けないな」
「うるせぇ!! どきやがれ!」
ウェイターごとウェイトレスをやろうというつもりなのか、勢いを上げて突進を続ける。その次の瞬間、人間が宙を舞っていた。そのまま宙で一回転し、ラウンジの床に叩きつけられる。
合気道というものだろうか。ウェイターは男子生徒に触れたようには見えなかった。投げた……と言っていいのか分からないが、とにかく何らかの技をかけたウェイターは、何でもなかったかのように落ち着いている。物凄い技量であることは、武術に造詣のない俺にも分かった。
「ナイス、ユーヤ!」
ウェイトレスはハイタッチを求めるように右手を高く掲げる。
「あまり無茶はしてくれるな」
ウェイターのほうも右手を上げて答える。
パァン!
ウェイトレスは軽くジャンプして、勢いよく互いの掌を打ち合わせた。そこから、拍手が波のように拡がっていく。ラウンジに居合わせた全員が、二人の行動を称賛していた。
「失敗したなぁ……」
出しゃばらずに昼ご飯に集中しておけばよかったと、時間が経って冷えたエビフライを見て一人ごちる。仕方ないと胸中でつぶやき、俺は食事を再開した。
食べ始めていくらも経たないうちに、カチャリとテーブルに一枚の皿が置かれた。
頼んだ覚えのない料理の到着を不思議に思って顔を上げると、そこには先程のウェイトレスとウェイターが立っていた。
「何ですか、これ?」
「さっきのキミだよね?」
さっきの、とは当然男子生徒の件だろう。けれど、だからといって料理を出される理由になってない。
「俺は何もしてないですよ」
「ううん。ボクは学食委員会でもないキミが、知らないウェイトレスのために行動してくれたことが嬉しかったから、そのお礼」
ウェイトレスは明るく、見る者を楽しくさせるような笑顔をしていた。何を言っても聞き入れそうにないと思った俺は、となりに立つウェイターに目を向ける。
「食べてやってくれ」
ウェイターも、同じく俺に料理を食べるように勧めてきた。
「それじゃあ、遠慮なくいただきます」
皿と一緒に持ってこられたナイフとフォークを手にして、目前の肉料理を切り分けて口に運ぶ。
「どうどう? 来週からの新メニュー」
その表情は期待に満ちていた。おいしいと言ってもらえる自信があるんだろう。実際においしかった。
「おいしいです」
素直な感想を口にする。
「だよねだよね。これで来週のメニューは安泰だね。それじゃあ、全部食べちゃって。残したら許さないからね」
ウェイトレスはそう言い残して、ウェイターと厨房のほうへ歩いていく。と思ったら、三歩も歩かないうちに戻ってきた。
「そうだ。まだ名前聞いてなかったよね。ボクは2‐Aの宮代葵。それでこっちが」
「同じく2年A組の藤吉悠夜だ」
「1‐B。白河彰です」
「そっかそっか。それじゃ、またね。白河くん」
そう言って、軽く右手を上げる。
俺もそれに倣う。
パァン! と、軽い音が響いた。
これが、俺が葵先輩と悠夜先輩の二人と知り合うキッカケになった事件だった。
「そうだ! 今度、先輩たちの卒業パーティーしてあげようよ」
唐突に、美咲がそんなことを言いだした。
「それ、いいかもな」
先輩たちにはお世話になったし、俺たちに何かできることがあるならしてあげたいと思う。それに、みんなで集まって騒ぐのはきっと楽しいはずだ。
「おはよう! しーたん。みっきー」
そんなことを考えていると、勢いよく背中を叩かれた感触と、葵先輩の声がした。
まったく。朝から元気な人だ。
「おはようございます、葵先輩。悠夜先輩。にしても、噂をすれば、ですね」
「ウワサ?」
言っていいものかどうか測りかねて、美咲に目で確認する。
そんな俺に向かって、美咲は首を横に振る。どうやらサプライズにしたいらしい。
「何でもないですよ。ただ、もうすぐ先輩たちは卒業だな、って話してただけです」
うん。別に嘘は言ってないからいいだろう。
「そうか。もうすぐだな」
「さみしくなるね」
言われて、先輩たちも改めて意識したのか、空気が少し重くなる。
不謹慎かもしれないが、俺は少し嬉しさも感じていた。先輩たちも、俺たちと同じ気持ちでいてくれたことが分かったから。
「朝から重い空気漂わせてんなぁ」
そんな空気を吹き飛ばす軽い声。聡だった。
「おはよう、聡」
俺の挨拶を皮切りに、みんなが挨拶を交わす。いつもの空気に戻っていく。
「そんで、先輩らはもう大学決まってたんやっけ?」
「うん。ボクもユーヤも青藍大学だよ」
すかさずその話に乗っかる葵先輩。さっきまでの空気は、もう名残もない。
聡は本当に、前向きな話題になると強い。同じ方向性の話なのに、みんなの表情がまるで違う。
「悠夜センパイはともかく、葵センパイが受かったのは今世紀暫定最高の奇跡やな」
「アハハッ! ボクもそう思う。ユーヤと一緒の大学に合格できて本当によかったよ」
青藍大学は、御歳市の隣接市である陵咲市(しのさきし)にある私立の総合大学である。まだまだ新設の域を出ない大学だが、新設なだけはあり、設備や講師も優秀で魅力的らしい。ここ数年少子化による定員割れを起こす大学が増え続けているなかでも、入学希望者と実際に入学する人数が増え続けていることが、それを裏付けている証左だと言える。もちろん、その分入試は難しい。開校当時はそれほどでもなかった基準偏差値が、今は早慶上理といった超有名私大に届こうとしているくらいだ。その人気と入学難易度は推して知るべしといったところか。
「当然ですよ。先輩あんなに頑張って勉強してたじゃないですか」
そんな葵先輩の言葉を受けて、美咲が力いっぱい力説する。
「ありがとね。受かることができたのは、きっとみっきーのおかげだよ」
美咲は先輩に頼まれてずっと家庭教師をしていたから、先輩がどれだけ頑張ってたかは一番知っているはずだ。その美咲が当然というくらいだから、本当にすごく努力したんだろうな。
「でも、葵先輩も悠夜先輩も国立志望じゃなかったんですか?」
一年生である美咲を除く俺たちは、みんな国立コースの生徒である。ということは、最初は間違いなく国立進学を目指していたはずだ。それがどうして、人気で近場だとはいえ私立に決めたんだろう。
「俺が学びたかったことを学ぶためには、青藍が一番だと思ったからだ。確かに国立を目指してはいたが、それだけを目指して自分が本当に学びたいことを見失うようでは、本末転倒だからな」
きっぱりと言い切られたその言葉は、悠夜先輩らしい考え方だと思った。
「悠夜先輩は遺伝子の研究を専攻にしたいんでしたっけ?」
「ああ。遺伝子の研究が進めば、今は治療法のない病であっても治療する術が見つかるかもしれない。俺はそんな病に苦しんでいる人たちに対して何かできればと思っている」
そう語る悠夜先輩の顔は、目標に向かって邁進していく人のそれだった。詳しく聞いたことはないが、何かあったということだけは聞いていた。
「ユーヤならできるよ。きっとね!」
このメンバーの中では唯一それを知る葵先輩が、複雑な表情で太鼓判を押すのだった。
「で、葵先輩のほうは何学部なんですか?」
「ボク? ボクは理工学部。ユーヤとは違う方向だけど、違う方向だからこそ手伝えることもあるからね。それで、再来年にはみんなでキャンパスライフを楽しめるといいな、って思うよね」
そう言って、数メートル先を歩いていた女生徒の背中に飛び付いていく。
って、マズい!
「先輩。それは――――!」
止めようとしたときには、時すでに遅しだった。
「もちろん。みあっちも一緒にね。……え?」
鳥井の背中に飛びついたはずの葵先輩が、俺たちの目の前で宙を舞い、次の瞬間にはアスファルトに押さえつけられていた。
「宮代先輩?」
「ふわ〜」
大きな音はしなかったので、途中で気づいた鳥井が威力を殺したのだろうが、それにしたって見ていたこっちは気が気じゃない。現に悠夜先輩以外は慌てて鳥井と葵先輩に駆け寄っている。
「すみません。宮代先輩……」
葵先輩の手を取って立ち上がらせる鳥井。
「あ、うん」
対する葵先輩は未だに自分がどうなったのか理解してないのか、少し口を開いて呆けた表情をしている。
「急に後ろから飛びつかれたものですから、反射的に投げてしまって……。怪我はないですか?」
「怪我はないけど……」
「けど?」
「スゴイね! みあっち。こんなことできる人が、身近にユーヤ以外にいたなんて!」
さっきまでの呆けた表情はどこへやら、もういつもの葵先輩に戻っている。
「確かにな。かなりの腕だ」
「いえ。昔に少し習っていただけの護身術ですよ。それより、どうして飛びついてきたんですか?」
鳥井の疑問も当然だろう。そこで俺たちは、かいつまんでさっきまでの会話を鳥井に話した。
「そういうこと……」
俺たちの説明で、ようやく納得したらしい。
それにしても、朝から大人数が集まったものだ。加えて、学院の有名人が一所に集まっているのだから、いやでも周囲から注目を集める結果となっていた。突発的な大立ち回りもあったしな。
でも、そんなことは誰も気にしていなかった。
「大学でもこの6人が一緒だったら、きっと楽しいよね」
「そうだな」
「そのためには、一人死ぬ気で努力してもらわなアカンけどな」
先輩たちはそれが本当になればいいと笑い合い、聡は俺を見てニヤニヤしている。つーか、またそのネタか。
「仕方ないだろ。苦手なものは苦手なんだ」
「お兄ちゃんはやってないだけでしょ。ねえ、深愛先輩」
「そうね。もう少し授業には集中したほうがいいと思うわ」
「うっせーよ」
そんな聡につっかかる俺と、止めずに煽る美咲と鳥井。そんなこんなで、学院につくまで俺がからかわれる羽目になった。
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