「みんな〜。まだ春休みまでは日にちがあるから〜、それまでがんばっていきましょ〜」

 朝イチの教室に響く、間延びした雪ちゃんの声。これを聞くと眠くなってくるのは、きっと俺だけじゃないと思う。約二年間聞いているが、朝の雪ちゃんののんびりボイスだけは慣れる気がしない。

 眠気覚ましにカバンから文庫本を取り出して、栞を挟んだページを開く。

 本を読むと眠くなるという人もいるが、俺にはそれが分からない。こんなに面白いのに、どうして眠気なんて出てくるのか。

 とっておきの御馳走を食べるように、一文字一文字をゆっくりと咀嚼して嚥下する。次々と口にしたくなるような、それでいてゆっくり味わいたいような、そんな感じ。

「…………くん〜。白河くん〜」

 口内でほどけて、するりと喉を通るもの。噛むごとに味わいを増すもの。

「白河くん。マズいわよ」

 色々なものがあるが、その全てが俺にとっては至高のものだ。

 

 そんな世界に浸っていると、唐突に横から本を奪われた。

 取り戻そうと横を向くと、そこには雪ちゃんの顔のどアップがあった。物凄くイイ笑顔をしていらっしゃる……。

「白河くん〜。読書は大変よいことですが〜、今は授業中ですよ〜」

 隣の席では、鳥井が呆れ顔を浮かべている。

「まったく〜。一体何を読んでいたんですか〜?」

 本のタイトルが気になるのか、ブックカバーを外してタイトルを確認する雪ちゃん。

「『銀河鉄道の夜』ですか〜。いいですよね〜、宮沢賢治の作品は〜。私も大好きなんですよ〜。白河くんはどれが好きですか〜?」

 文庫本のページを繰りながら、いつの間にかどこか遠くを見ている雪ちゃん。その心はきっと、銀河鉄道に乗っているんじゃないだろうかと思わせる。ミイラ取りがミイラになるとはこのことだろう。

「あ。すみません〜。危うく終着駅まで乗っていくところでした〜」

(本当に乗ってたのかよ!)

「それじゃあ今日は〜、宮沢賢治について勉強しましょう〜。白河くん〜、これ借りますね〜」

 雪ちゃんは上機嫌で宮沢賢治について語り始めるのだった。

 

 

「白河くん。少しは責任を感じたほうがいいと思うわよ」

 今は昼休み。俺と鳥井は屋上にいた。

 ついさっきまで校舎全体を支配していた静寂も今は消え、代わりに喧噪がその役を担っていた。

「って言われても、アレは俺も予想外だったぞ」

 全ての授業計画が100%消化されているからといって、まさか午前の4時限全てを雪ちゃんが宮沢賢治談義に費やすとは思わなかった。だいたい、他の教師たちも自分が楽するために授業時間を譲ることを納得するなと言いたい。

まあ、苦手な数学の授業がなくなったのはありがたいし、雪ちゃんの話は面白い。けれど、熱中した雪ちゃんを止めるのは至難の業だった。あのままの勢いだと昼休みはおろか、午後の授業まで丸潰れになるところだった。

「授業を受けていれば分かることだけど、先生もかなりの読書好きね」

 鳥井は給水用のパイプに腰かけ、トマトサンドのフィルムをはがしだす。俺も同じように、カツサンドのフィルムをはがす。

 

 しばらくの間、食べることに集中していたせいで無言が続いた。

「で? わざわざ屋上で昼ご飯を食べるってことは何かあったのか?」

 鳥井がサンドイッチの最後の一口を食べ終えたことを確認してから口を開いた。

 ラウンジで待っていた美咲に断りを入れてわざわざこんなところで食べるからには、何か理由があるはずだ。

 ――――ウィルスに関係してくるであろう理由が。

「察しがよくて助かるわ。まず松永麻衣子についてだけど、手術は無事成功よ。これで、今後二度とウィルスに感染することはなくなったわ」

「そうか」

 意図せずに、安堵のため息がこぼれ出た。

 これから先、先輩には多くの苦労があるだろう。しかし、それも命があればこそだ。がんばって生きてほしいと思った。

「もう一つは……」

 そこでなぜか、鳥井は口を噤んだ。

 もしかして、何かそれほど言いにくいことでも起こったのだろうか?

「もう一つは――――

 

    鳥井は俯くようにして、口を開いた。

 

      ウィルス消去によって、わたしに下されていた指令は達成と判断されたの。よって、本部への帰還が言い渡されたわ。御歳市にいられるのも、最長であと五日、といったところかしらね」

「な……っ!?

 伝えられたのは、先に必ず待つ別離だった。

 鳥井はウィルス消去のために御歳市にやって来た。ウィルスが消去できれば去っていくのは自明の理。そんなこと、分かっていたはずだった。それでも俺はショックを隠せなかった。

 既知にたゆたうことが嫌いになったわけじゃない。ただ、鳥井と出逢って未知を泳ぐ楽しさを知った。

 いや、目を背けようと迂遠に言わなくても、本当は理解していた。

 

 俺は鳥井に――――鳥井深愛という少女に惹かれている。

 

 だから、これほどまでにショックなのだ。

「……どうにもならないのか?」

 返答は分かりきっているのに、それでも訊かずにはいられなかった。

「ならないわ。わたしと白河くんとでは、住む世界が違うもの」

 きっぱりと言い切る鳥井。予想通りだった。

 これ以上の会話は無用とばかりに、鳥井は一人非常階段に向かって歩いていく。その途中、ポツリとこぼした。「ありがとう」と。

 

 言いたいことは、それこそ山のようにあった。けれど、そのいずれも伝えられなかった。

「ありがとう……って」

 そんなことを言われたら何も返せない。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが空しく響く。けれど、俺は座り込んだ場所から動けなかった。

 

 

 一日たっても、気分は切り替わらなかった。

 けれど、隣で黒板を写している鳥井は普段と何も変わらないように見える。

(慣れているんだろうな、やっぱり……)

 俺は鳥井が最初に学院にやって来た日のことを思い出していた。転入の挨拶に慣れているということは、当然それだけの別れを経験してきたということ。鳥井は、今回のこともそのうちの一つとしてしか捉えていないのだろうか。

「白河くん。また注意されるわよ」

 自分を見る俺の視線に気づいて、俺に注意を促す鳥井。

「ああ……」

 もうすぐ――――

 

 ガシャ――――――ン!!

 

 急に、どここからガラスの砕けるけたたましい音が降ってきた。それと同時に複数の人間の叫び声も聞こえてくる。

「何!? 今の音!」

「ケンカか?」

「何かあったのかしら?」

 そこかしこからそんな声が聞こえてくる。

 教室内、いや、校舎内が俄かに騒然としだす。

 何事かは分からないが、何か起こったことだけは確かだった。

 俺は反射的に立ち上がり、廊下へと出て周囲の状況を探る。思考が停止しないですんだのは、夢幻世界での経験のおかげに違いなかった。

 

 もう一度、おそらく今度はさっきと別の場所からガラスの割れる音がした。

「白河くん! 呆けてないで行くわよ!」

 同じく廊下に出てきていた鳥井が駆けていく。

「わたしは四階東棟へ行くから、白河くんは北館西棟ニ階をお願い」

 あの悲鳴と破壊音が交錯する音の嵐の中で、鳥井はその根源をきっちり突き止めていたらしい。さすがに踏んできた場数の違いだと改めて痛感させられた。

 

 階段を一段飛ばしで転がるように駆けおりる。

 音の発生源であろう二階の混乱は、俺達がいた三階とは比べ物にならない。

 廊下まで生徒が溢れだし、何が起こったのか確認しようとしている者と、その流れに逆らって逃げる者とで混乱に拍車をかけていた。

 その流れの中を無理矢理押し通ってたどり着いたのは、3‐Aの教室。葵先輩と悠夜先輩のクラスだ。

 二人の身に何も起こってないことを祈りつつ、開け放たれた扉から中へ飛び込む。

 そこでは悠夜先輩が誰かを取り押さえていた。

「白河?」

 突如現れた俺に困惑を隠せない悠夜先輩。

「すみませんが、話はあとで」

 短くそう言って、取り押さえられている人を見下ろす。俺の乏しい知識では確定できないが、セカンドステージである可能性が高い。

けど、まさか、という考えが脳内をかき回す。

「先輩。この人を何かで縛って、動けないようにしておいてください。あと、みんなに校外へ逃げるように伝えてください」

 一息でそれだけ言って、返事を聞かずに廊下へ飛び出す。

学院内の混乱の度合いは、さらに増しているようだった。この混乱の渦中にはどれだけの感染者がいるのか想像もつかない。

 

「白河くん!」

 階段の手前まで来たところで、降りてきた鳥井と合流することができた。

「そっちはどうだった?」

「セカンドよ」

「こっちも多分そうだと思う。とりあえず、悠夜先輩に校外へみんなを誘導してもらうように言ってある」

「それでいいわ。まずは感染者の確保より被害者を出さないことを第一に――」

「――――けて! おにいちゃーん!」

 鳥井の声を遮るようにして、聞きなれた声が聞こえた。

「美咲!?

 今の声は間違いなく美咲の声だった。

「まさか感染者に?!

 鳥井が声に出すのと同時に、俺は走り出していた。今この瞬間に美咲の身に危険が迫っているのだとすれば、間に合わないかもしれない。俺にとってそれは、何よりも恐れていたことだった。

 

 必至で駆ける。それでも……

 間に合わない? 

 

 カチ

 

 本当に?

 

カチ

 

普通の手段では助けられない?

 

 カチ

 

それなら

 

カチ

 

世界の法則を捻じ曲げてでも……

 

 カチ

 

 助けてみせる!

 

           カチリ……

 

 頭蓋の中で、軋る時計が世界の流れを刻むことを放棄した。

 

 

 ここはどこなんだろう?

 見渡してもみても、上下左右何もない。そもそも、上下左右という認識が当てはまるのかどうかすら分らない。

 自分が立っているのかどうかすら定かじゃない。

 ただ茫漠と拡がる闇だけが、そこで唯一俺が認識できるモノだった。

 

 ――――コッチヘ……――――

 

 黒(しろ)く塗り潰された脳の中に、その言葉が直接響いてきた。

 

 ――――コッチヘ……――――

 

 誰の声なんだろう?

 聞いたことはない気がする。

 

 ――――コッチヘ……――――

 

 でも、呼ばれてるんだから行かなくちゃいけないきがする。

 

 ――――コッチヘ……――――

 

 どこともしれないばしょへからだがながされていく。

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ……――――

 

いかなくちゃいけない。おれはあのこえにしたがわないと。

 

「………………」

 

いま、べつのほうからもなにかきこえたきがした。

こっちのこえは、なつかしいきがする。

 

「……くん」

「お兄ちゃん……」

 

 このこえはだれだろう?

 とてもたいせつだったきがする。

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

「お兄ちゃん。お願い……だから、目を……覚まして」

 

 み……さ……き?

 

「白河くん。意識をしっかり持って!」

 

 と……り……井?

 

 そうだ。二人が呼んでくれてる。

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 ――――コッチヘオイデ、ショウ……――――

 

 こんな声に惑わされてる場合じゃない。

行かないと。これ以上心配させるわけにはいかない。

 

 

 俺は――「大丈夫だから……」

 声が出た。

 けど、頭がぼうっとして思考が定まらない。

「お兄ちゃん!!

 そんな状態の俺に美咲が抱きついてくる。涙で顔をくしゃくしゃにして、力いっぱい。

「おにいちゃん! おにいちゃん! おにいちゃ――――――――ん!!

「悪い……美咲。心配かけたな、鳥井にも。二人が呼んでくれなかったら、いまごろどうなっていたか……」

 あんな昏い闇の中に閉じ込められたままだったら、精神がどうにかなっていたかもしれない。それこそ発狂していただろう。あの闇にはそれを十分可能にするだけの何かがあった。「ナニ」と明確な言葉にすることはできないが、とにかくアレはマズイ。

「そうだ! 美咲はなんともないか?」

 異様な体験のせいですっかり失念していたが、俺は美咲の悲鳴を聞いて走り出したんだ。しかし、そこからあの昏い世界にいたところまで記憶が飛んでいる。

「わたしは、大丈夫だよ」

「そうか。鳥井が助けてくれたのか?」

「違うよ。お兄ちゃんが助けてくれたんじゃない」

「そう、なのか?」

 俺を安心させるための嘘かとも思ったが、美咲の表情からは、そんな余計な気遣いは感じられない。ということは、本当のことだということだ。でも、一体どうやって?

「そのあと急に倒れちゃって、ずっと目を覚まさなかったの……。本当に心配したんだから……。本当に、このまま目を覚ましてくれなかったらどうしようって……。お兄ちゃんのばかぁ……」

 話しているうちにその時の感情がぶり返したのか、美咲は目に涙を浮かべていた。

「ごめんな、美咲」

 幼い頃してあげていたように、ゆっくりと頭を撫でてやる。美咲が泣いたときはいつもしてあげていたなと、当時のことを懐かしく思うほどには余裕が戻ってきた。

 と同時に今の学院の状況も思い出し、鳥井に説明を求めた。それに対する返答は、状況が悪化しているとばかり思っていた俺には拍子抜けとしか言いようがなかった。

「白河くんが飛び出していったあと、すぐに神林さんに連絡して手分けして事態を収拾したの。生徒に被害はなかったけれど、一応授業は中止で、事件発生当時校内にいた人間は、わたしたちを除いた全員が帰宅したわ」

「じゃあ、俺ってそんなに長い間気を失ってたのか?」

 あれだけの混乱だったのだ。10分や20分では済まないだろう。

「大体1時間半、といったところかしら」

「そうか……」

 そんなに長い間気を失っていたのなら、美咲にはかなりの心配をかけてしまったな。

 

「鳥井くん。彼は大丈夫でしたか?」

 話が止まったところを見計らったかのように、廊下から神林さんが顔を覗かせた。

「……すいません、神林さん。ご心配おかけしました」

 俺は項垂れるように頭を下げた。助ける側にいたというのに助けられたとあっては、面目なかった。

「いえいえ。君が謝る必要はありません」

 しかし、神林さんは俺の謝罪をやんわりと受け流した。

「……はい」

 と、俺にはそう答えることしかできなかった。うつむいたまま、唇を噛んで。

謝罪を受け取ってもらえないということは、俺には端から期待していなかったということだ。それが悔しくもあり、何とも惨めだった。

「一応、君には病院でMRIを受けてもらいたいと思うのですが、いいですか?」

 そんな俺の内心を知らない神林さんは、至極当たり前な提案をしてきた。

 気を失っている時間が長かったからだろう。

「お兄ちゃん。受けてきたほうがいいよ」

 美咲もそれに賛同する。

「そうだな。お願いします」

 俺のちっぽけな矜持で美咲にさらなる心配をかけるわけにはいかないし、ここは素直に従っておくほうが正解だろうな。それに、何といっても長時間気を失っていたのは事実なんだし。

「では、今車をまわしてきます。動けそうなら、昇降口あたりまで来ていてもらえるとありがたいのですが」

「大丈夫です」

「分りました。では、また後で」





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