「くそっ……!」

 勢いよく屋外に飛び出したはいいものの、感染者の行方なんて当然ながら見当もつかない。手がかりもない今、できることは少なかった。虱潰しにあたっていくか、予想を立ててそれに賭けるくらいなものだ。

 御歳市は市としては小さいとは言っても、人ひとり探すには広すぎる。その中で虱潰しにあたるのは分が悪い。頭数がいれば人海戦術も視野に入れることができるが、あいにくこちらは3人しかいない。それでは話にならない。

 そうなると、取り得る手段は感染者の場所を予想することしかなかった。

 俺は大きな範囲から徐々に狭めていく方法をとった。

 まずは御歳市に限定する。市外となると、これはもう俺たちだけでは探しようがない。だから、ここをスタートとする他なかった。次に、範囲をこの御歳市中央近辺まで絞る。これは可能なのか? いや、おそらく不可能だろう。他地区へは徒歩でも行けるし、別段道順が難しいわけでもない。

すぐに頭打ちになる。どこかで事件でも起こればまだ見つける可能性も上がるのに、何も起こってないのでは指針にもできない。

 

…………何も起こってない。それはおかしいことのように思えた。感染者は意識がないはずだから、人を見ればウィルスが攻撃行動をとるはず。道を歩けば人に出会う。なら、道を歩かなければ? 

そんな都合のいい場所なんてあるわけ…………ある! 学院だ!

今日は休日。当然学院は休みである。開放されているラウンジや部活に勤しむ生徒たちはいるが、校舎内には誰もいない。閉鎖された場所なら誰もその視界に入らない。もし、人のいないうちに校舎に入っていたのなら。

即座に学院へ向かって走る。

 

 

「はあ……はあ……はあ……っ」

膝に手をついて、息を整える。目の前には黎明館学院の正門がある。

ようやく到着した。

運動してない身体に全力疾走は堪える。しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。もし間違っていたらすぐに次の場所を探しに行かなければならない。悠長に構えていられるような余裕はなかった。

すぐに昇降口から入り、教室棟の各階各教室を確認していく。一階。二階。三階。四階。どこにもいない。特別教室棟も確認するが、ここにもいない。

間違っていたのか? そんな考えが浮かんだ瞬間、それを悲鳴がかき消した。恐怖に彩られたそれは、外から聞こえてきた。

瞬間、弾かれたように走り出す。階段を一段飛ばしで駆け下り、屋外に飛び出る。見れば、弓道場のほうから人が慌てて出てくるのが見えた。

「何があった?」

 弓道着を着た生徒を捕まえて説明を促す。

「……いきなり、殴られ……それで、」

 事態を呑みこめていないのか、恐怖で口が動かないのか、その説明は不明瞭を極めた。

 それが落ち着くまで待つ余裕もなく、俺は事態を把握しないまま弓道場へ飛び込んだ。

 

 板張りの床に土足で飛び込んだ俺が目にしたのは、床に倒れこんだ弓道着を着た男子生徒と、凶器を握りしめた女生徒。それと、そんな女生徒に声を送る美咲だった。

「美咲!」

 俺はまず美咲の安全を確認するべく、近くまで走って行く。

「お兄ちゃん……」

 幸い怪我をしているようには見えなかった。そのことに、ひとまず胸を撫で下ろす。しかし、安心してばかりもいられなかった。

「先輩が……松永先輩が急に」

 どうやら、凶器を所持しているのは松永先輩で間違いないらしい。

「美咲。俺が何とかするから、お前は逃げろ!」

「お兄ちゃん!? ダメだよ! 今の先輩は普通じゃないよ!!

「分かってる。大丈夫だから逃げろ」

「ダメ! 逃げるならお兄ちゃんも一緒じゃなきゃ!!

「! 危ないっ!」

 美咲に気を取られているうちに、先輩が横たわる男子生徒に更なる痛みを与えようと凶器を振りおろす。

 右肩に向けて勢いよく振り下ろされたそれは、骨を砕く異様な音を奏でた。男子生徒は痛みのせいで気絶しているのか、苦悶の声すら上げない。

 これ以上攻撃させたら間違いなく命に係わる。

「俺は絶対大丈夫だ。だから逃げろ。いいな?」

「…………うん」

 納得はしてないだろうが、ようやく美咲が出入口に向かう。

外へ逃げたことを横目で確認してから、俺はもう一度凶器を振り上げる先輩に向かって走り出すと同時に、ケータイを取り出してコールする。

『見つかったの!?

 1コールも待たずに鳥井が出る。その声には、常ならぬ焦りと疲労が窺えた。

「学院の弓道場だ! 生徒が一人重傷なんだ。すぐに来てくれ! それと救急車を!」

『分かったわ。すぐに向か――――』

 鳥井の返事を最後まで聞かず、予備動作(テイクバック)なしのスリークウォーターでケータイを先輩目がけて投げつける。昔取った杵柄のおかげか、先輩の頭部に的確にヒットする。そのおかげで振り下ろす凶器の軌道が鈍り、盛大な音を伴って射場の床を叩いた。

 俺自身は走る勢いそのままに先輩に横からタックルする。二人して矢道の砂利の上を転がる。

 回転が止まると同時に、俺は先輩に馬乗りになり、身動きできないように四肢を抑えつける。ウィルスに感染したとはいっても筋力が上がるわけではないので、俺の下で体を捩る先輩に振り落とされることはなかった。

 両足に力を入れて足だけで先輩を抑え込み、神林さんから渡されたピルケースを取り出す。これを飲ませることができれば、状況は間違いなく有利になる。

 暴れる先輩のせいで何錠か零れ落ちたが、ようやく一つ手に取り、先輩の口に押し込む。本能的な恐怖を悟ったのか、抵抗が激しくなる。

「ぐっ……!」

 右手の人差し指に熱が走る。それが先輩に噛みつかれたせいだと理解するまで数瞬を要した。それだけ必死なのだろう。だが、こっちも負けるわけにはいかない。ここでカプセルを飲みこませることができなければ、被害は今以上になることは想像に難くない。

 がりがりと歯が骨を穿とうと容赦なく食い込んでくる。それでも口を抑えつける手を離すわけにはいかない!

 

――――――――――

 

不意に、周囲の音がなくなった。先刻まで弓道場の外から聞こえていた声も聞こえない。どうやら、カプセルが効果を発揮したらしかった。夢幻世界が現出したのだ。

 それがほんの少しの油断に繋がったのか、先程までより一層激しく暴れる先輩に振り落とされる。

すぐに立ち上がるが、先輩も既に立ちあがっていた。

今更になって、ようやく先輩と対峙した。そして、そのあまりに人間性を欠いた表情に怖気が走る。肉体が生身の人間な分、その虚ろな表情が持つ異常性が際立つ結果になっていた。暗澹とした光を宿した両目は焦点を結ばず、ただただ虚空を彷徨っている。だらりとした四肢は、まるで糸の切れたマリオネットのよう。しかし、その身体に込められている呪い(ウィルス)だけは確実に数瞬ごとに精神を食んでいる。

「アアア……アアァァァァァ!」

 意味を為さない叫びが口から吐き出される。それと同時に、俺に向かって凶器を振りおろす。

 予想よりも速いその動きに戸惑いつつも、右側に転がって何とかかわす。あとは鳥井が来るまで時間を稼ぐだけだ。鳥井がどの辺りにいるのかは分からないが、少なく見積もっても現実世界時間で10分は下らないだろう。これには運も関わってくる。今回の夢幻世界が現実世界より時間の流れが早いのか遅いのか、勝負の分かれ目はそこだった。

 今回の夢幻世界の範囲がどれほどか分からないために、先輩をこの弓道場から逃がすわけにはいかない。だから、俺は逃げ回ることに専念するわけにもいかなかった。

「ゥァァアアア!」

 およそ人間が発したものとは思えない異様で異質で不快な叫びと同時に、地面を蹴って肉薄してくる。

 右手の凶器が弧を描いて襲い掛かってくる。それを右へ飛んでなんとかやり過ごす。しかし、そんな俺の行動を読んでいたのか先輩は身体の向きを変え、俺を追撃してくる。

「ぐ……っつ〜」

 辛うじて、咄嗟に下げた左肘が左の脇腹への攻撃を防いだ。

まさに神業的なタイミング。あと数ミリズレていたら、左腕の骨が完全に持っていかれていただろう。そう思わせる重い一撃だった。

 それからも防戦一方な展開は免れなかった。こっちは丸腰で相手は凶器持ち。さらに、こっちは相手への危害は最小限に止めなければならない。彼我の優位性は明らかに劣勢。

 そんな俺が追い詰められるのは時間の問題だった。

 

「がっ……!」

何とか腰を捻って直撃は避けられたが、左足に鈍い痛みが走る。

 しくじった。上半身狙いの攻撃だと思っていたが、突然軌道が変わったのだ。まさか今まで単純な攻撃しかしてこなかったウィルスが、よもや足を封じる手段に出るとは予想外だった。

 痛みのせいでバランスを崩し、膝から崩れ落ちる。

 見上げる先には虚ろな双眸。視界の中で天を割る凶器は、審判を下す神の鉄槌にも見えた。瞬間、嗤った気がした。

 俺の頭蓋目がけて振り下ろされる凶器。よく、死ぬ直前は時間が引き延ばされると聞くが、まさにその通りだと思った。それくらい、俺の目線の先にある凶器の移動は遅々としたものだった。

 ………………っていうか、止まってる?

「……まったく。無茶するのもいい加減にしなさい」

よくよく見ると、先輩が振り下ろした凶器は、鳥井の大鎌に止められていた。

「鳥井……」

「でも、あなたが時間を稼いでいてくれたおかげで逃げられずにすんだわ」

 一つの接点でせめぎ合っていた力は、鳥井が一瞬力を抜いたことによって均衡が破れた。それによって前のめりになった先輩の、その水月を大鎌の石突が的確に打ち抜いていた。

「わたしは、そこの白河くんのようにはいかないわよ。この大鎌の餌食にしてあげるわ」

 矢道に転がった先輩を見下ろすその顔は、心胆を寒からしめる凄絶な笑み。烈火の如き殺気とは正反対なそれは、氷のように凍てついた笑みだった。

 ――――バカか、俺は。

 鳥井に連絡すればこうなることは目に見えていたというのに。

 普段は冷たさを前面に出しつつも、優しさの垣間見える鳥井。それが、ウィルス関係に遭遇するとスイッチが切り替わるかのように冷徹な鳥井が顔を見せる。

 そんな鳥井は見たくなかった。

 もちろん、俺は鳥井の過去に何があったのか詳細は知らない。だから、鳥井がウィルスをどれだけ憎んでいるのかは想像する他ない。もっとも、俺が知っている範囲――――鳥井の両親と妹はウィルスのせいで亡くなっているという事実だけでも、十分すぎるほど十分な理由ではあるが。

 それを理解していて尚、俺はそんな鳥井を見たくなかった。

「本当なら少しずつ苦痛を与えてあげたいところだけど、セカンドステージに移ってしまっている以上、そんな余裕はないわね。一思いに消してあげるわ」

 笑みを崩さず、先輩に向かって一歩ずつ歩を進めていく。その姿は、命を刈り取らんとする死神にも、魂を救済せんとする女神にも見えた。

 俺はそんな鳥井に圧倒されて動けないでいた。止めようと思うのに、身体がまったく言うことを聞かない。

 

 そして、いよいよ鳥井と先輩は対峙した。両者の距離は、約2メートルといったところだろうか。完全に鳥井の間合いであった。

 悠然としていて、それでいてスキらしいスキの見当たらない鳥井に対して、突かれた水月が痛むのか、先輩は立ちあがったものの動作がぎこちない。

「アアァァァッ!」

 しかし、先に動いたのは先輩だった。

 凶器を振り上げ、鳥井に向かって猛然と突進していく。

 振り下ろされる凶器はしかし、鳥井の大鎌によって止められていた。

「はっ!」

 鋭く息を吐き出す鳥井。それと同時にもう一度水月を突く。先輩は避けることも叶わず、再び地面に転がされた。

 両者の間は、圧倒的な実力差によって隔てられていた。

 短絡な思考回路しか有しないウィルスと、場慣れした鳥井とではやはり格が違ったということなのだろう。

 しかし、そんなことをウィルスが理解できるはずもなく、再び立ち上がり、鳥井に向かって襲いかかる。

 鳥井も腰を少し落として迎撃態勢を取る。次の瞬間二人は交錯し、

「永遠の悪夢路へ旅立ちなさい」

 鳥井の大鎌が先輩の首を刈り取…………れてない?

 それなのに夢幻世界が消えていた。

 

「……なあ、鳥井。一体どうなったんだ?」

 すでに大鎌を持っていない鳥井からは、殺気も霧散していた。

「どうって、見てのとおりとしか言いようがないわ」

 振り向いたその顔に、先ほどまでの凄絶な笑みはもうなかった。

「だから、それがどういうことか分からないから訊いてるんだけど」

「ウィルスを消滅させたから夢幻世界も消えた。それだけだけど?」

「なら、なんで先輩の首と胴体が繋がってるんだよ」

 俺が訊きたかったのは、詰まるところその一点だけだった。

 鳥井は確かに両手に持った大鎌で先輩の首を刈ったはずなのだ。それなのに、先輩の身体は二分されていない。明らかにおかしかった。

 しかし、

「説明してなかったかしら?」

 鳥井の返答は簡潔だった。

「夢幻世界は、世界を物質世界と精神世界に分けると精神世界の部類に入るの。だから、精神世界でどれだけ傷を負っても肉体が傷つくことはないわ」

「……なるほど。そういうことか」

 確かに身体中痛みはあるが、怪我をした風ではない。

「でも、死ぬんだよな?」

「ええ。脳が、人が死に至る限界値以上の痛みを認識すれば、待っているのは当然の結果だけ…………ああ、そういうこと。

つまり、白河くんは先輩が死んでいないことが不思議なのね」

俺が言う前に、鳥井は俺が抱いていた疑問点を言い当てた。

「わたしたちにとっては都合がいいことに、ウィルスは脳全体を侵すという研究結果が報告されているわ。もちろん、現実世界ではたとえ感染者本人に痛みがなくても、失血などで肉体的に死ぬから無茶はできないけれど」

「そういうことは最初から言っておいてほしかったよ……」

「ごめんなさい。これを伝えれば白河くんは必ず無茶すると思ったから」

「それは…………確かに否定できないけど」

「でしょう」

 言わなくても無茶はするみたいだけど、と、半眼でプレッシャーをかけてくる鳥井。

「……ま、何にせよこれでひとまず落ち着いたかな」

「そうね」

 まだ分からないことはあるけど、今は松永先輩を助けられたんだから良しとしよう。





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