自分もついていくと言って聞かなかった美咲をなんとか宥めすかして家に帰すことに成功し、検査を終えるまでには、教室で目を覚ましてから既に三時間以上が過ぎていた。

 そして今は、検査の結果を聞いているところだった。

「結論から言うと、脳には何の異常も見られませんでした。恐らく脳震盪でも起こされたのではないかと思います」

 医者の簡潔な説明に、俺は安堵した。

 自分では大丈夫だと思っていても、何か思わぬ状態になっていることは往々にして存在する。医者の息子として育ったおかげで余計な医学知識がある分だけ、俺は自分が健康な状態だという自己診断に自信を持っていたが、それでも専門家の口から言われると、安心の度合が大きく違っていた。

「念のため、一晩だけ入院してもらうことになりますが、よろしいですか?」

「はい。分りました」

「それではすぐに個室を用意させますので」

 そう言って看護師を呼ぼうとした医者を、俺は慌てて制した。

「お、大部屋にしてください。こんな健康な人間に個室なんていりませんよ」

「しかし……君もVIP患者に類されるし」

「俺は大丈夫です。それに、母さんが鬼籍に入った時点でこの病院と俺との間には何の関係もないんですから。ましてやVIPなんて」

 

 俺が運び込まれた病院は、かつて両親が経営者だった『聖人会総合病院』だった。両親が生きていた頃は、確かに両親以外の医者にはVIP扱いされていたが、今の俺たちはこの病院と何の関係もない。VIP扱いなんてもってのほかだった。

 それに、健康な人間が個室を使っていたせいで患者に迷惑がかかることなんて、可能性すら微塵もあってはならないことだ。それが罷り通るなら、病院として正道から逸脱していると思う。

「白河くんならそう言うだろうと院長も言われていたけど、これは院長命令なんだよ」

「院長って、村木のおじさんがですか?」

「ああ、そうだ」

「…………そうですか。なら、個室が必要になった場合は俺から大部屋にまわしてくれるという条件でなら有り難く使わせてもらいますと院長に伝えてください」

「分かった。伝えよう」

 

 

 その後すぐに部屋が用意され、俺は美咲が持ってきてくれたジャージに着替え、ベッドに座っていた。

「……着替えを持ってきてくれたのはありがたいけどさ」

心配をかけないために先に帰したのに、病院に来てしまったのでは意味がなくなってしまう。案の定、俺が入院すると知らされたときの美咲は周りが引くほどの反応を見せたらしいし。

 

『お兄ちゃんが、入院? 検査の結果では何も問題なかったんじゃないんですか!?

『一晩様子を見るだけだから、大丈夫』

『でも様子を見るってことは、つまり様子を見なきゃいけないことがあるってことですよね?! もしお兄ちゃんになにかあったらどう責任とる気ですか!?

 

という押し問答が10分程は続いたらしい。最後には村木のおじさんまで呼んで『病院の威信にかけて』と宣誓紛いのことまであったという。

「どこにいても心配はするもん…………。ねぇ、やっぱりわたしも泊まるよ」

「大丈夫だって」

美咲がここへ来てから、既に同じようなやりとりを10回は繰り返していた。

大丈夫だと言われても心配してしまうんだから、いっそのこと一緒にいたほうがいい、という美咲の主張も分かるが、今回ばかりはそれを受け入れるわけにはいかなかった。

学院での事件の詳細を聞きたいし、純粋に、そこまで心配されることではないという思いもあった。

「美咲、本当に大丈夫だから、な?」

右手をぽふっと美咲の頭に乗せる。

「美咲ちゃん。私が彰ちゃんは絶対に大丈夫だと断言するよ。だから、ここは彰ちゃんの意見を聞いてあげなさい。彰ちゃんも男の子なんだから、たとえ妹といえど、女の子と一緒に寝るというのは恥ずかしいんだろう」

ハッハッハと、大口を開けて笑っている。

……おじさん、ナイスなんだけど一言多いですよ。

「……分かりました」

渋々了解の意を示す美咲に、俺はありがとうと告げた。

 

「じゃあ、もうすぐ面会時間終わりだから帰るね」

腕時計で時間を確認した美咲は、そう言って椅子から立ち上がった。

「明日の夜はお兄ちゃんの退院祝いにごちそう作るから、入院延長は許さないからね

やっといつもの美咲らしくなってきた。

「了解」

「じゃあ、おやすみ、お兄ちゃん。おじさん、お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」

「ああ。任せておきなさい」

「じゃあね。お兄ちゃん」

静かにドアを閉めて、美咲は帰っていった。

「すみませんでした。おじさん」

「なに、気にするほどのことじゃない。それじゃ、私も残った仕事を片付けるとしよう。何かあれば遠慮なく呼んでくれ」

「はい。ありがとうございます」

美咲に続いて、村木のおじさんも帰った部屋には俺一人。ベッドから抜け出して窓際に備え付けられた机に座り、美咲が着替えと一緒に持ってきてくれた文庫本を開く。

「あいつ……」

わざわざ、新しい本を買ってきてくれたらしい。俺の本棚にはなかった本だった。

 

コンコン

 

「どうぞ〜」

文字を追うことは止めず、脊髄反射で返事を返す。

 

 ……………………

 

「……早速読書とは、元気そうね」

「ああ……………………って、うわっ!? いつからいたんだよ?」

「どうぞって返事をしたのは白河くんでしょ……」

俺の問いに、呆れを返す鳥井。そう言われれば、確かに返事をした気がしないでもない。「これだけ元気そうなら、お見舞いの品は必要なかったかしらね」

そういう鳥井の左手には、コンビニのレジ袋が提げられていた。

俺は机から下りて、椅子に座る。空いた机上に『お見舞いの品』を置き、鳥井も向かい側の椅子に腰を下ろした。

「ありがとな、鳥井」

「どういたしまして」

「で、今までどこにいたんだ?」

 鳥井も神林さんの車で病院まで一緒に来たのだが、いつの間にかいなくなってしまっていたのだ。

「ちょっと気になったことがあって、学院に行ってたの」

 そのせいでこんな時間に来ることになってしまったということだった。

「そうか。で、早速だけど、学院での事件のこと聞かせてくれるか?」

 俺は待ち切れずに、本題を切り出した。

「そうね。といっても、学院の事件単体で見れば、大した被害はなかったけれど。今回の事件で被害を受けた生徒はゼロ。ガラスや机といった物的被害のみよ。感染者が3人もいたことから考えると、本当に僥倖としか言いようがないわね。それから感染者だけど、3年A組の前園誉、3年E組の中峰佐由里、1年D組の高原亮太の3人。この3人の接点は今のところ見つかっていないわ。一応訊いておくけど、白河くんには思い当たることはない?」

 俺は無言で首を振った。

「そうよね」

 特に残念そうでもなしにつぶやいた。

 まあ、俺に思い当たる程度のことなら、既に調べがついているだろうしな。それに、重きを置くべき点は別にあった。

「それより、『学院の事件を単体で見れば大したことはない』ってことは、何かと繋げたら大したことがあるってことだよな?」

「そうよ、先の松永先輩の事件のときに見つけた死体があるでしょう」

「……ああ」

 あの悪趣味な趣向を施された死体を思い出す。やっぱり気持ちのいいものじゃないな。

「あの死体の死亡時期から考えると、この町では今年に入ってから今日までだけで、少なくとも5人以上の感染者がいた計算になるの。調査の結果、判明してる感染者は、その誰もがセカンドと接触した気配は皆無。加えて、この小さな市に1人ならまだしも5人もアプリオリがいるなんてことも、確率的に見て到底有り得ることじゃない。これらから導き出される解はもう一つしか残されてない。ここが――――この御歳市自体が、ナイトメアウィルスのための巨大な実験場だということ……」

「そんな、莫迦な……」

 俺の口から出た反論は、弱々しいものだった。

 今日までこの町で生活してきて、色んな場所で、色んな人と、色んな思い出があった。その全てが、実験場という一言で否定されたように感じた。

 

 思い出は人が生きていく上で大切なものだ。

 それを汚されたかもしれないのに、俺は……。

「くそっ!」

 今度はしっかりと声が出た。

 怒りが湧くより先にそのことを受け入れてしまった自分がイヤだった。

「………」

そんな俺に、鳥井は何も言わなかった。言わないでくれた。同情も憐憫も励ましも、何も。ただ静かに、俺が握り締めた右拳を見つめていた。

 

そのまま、いくら時間が流れただろう。

静寂の中、鳥井がゆっくりと口を開いた。

「――――覚悟が」

その強い意志(おもい)を宿した瞳は、鳥井自身も何らかの覚悟を決めたことを伝えてきた。

「本当に強い覚悟があるなら、わたしが戦うための力を引き出してあげる」

それは、予想外の言葉だった。

力がなかったから、今まで使徒との戦闘の一切を鳥井に頼ってきたのだ。そんなことができるなら、今まで黙ってた意味が分からない。

「そんなこと、本当にできるのか?」

「ええ」

鳥井らしい簡潔な答えだった。

「なら、どうして今まで黙ってたんだよ! 最初からそれをしてくれてたら!」

「これは今だからこそできるの。白河くん、あなた、美咲を助けたときどうやって助けたか覚えてるかしら?」

「……覚えてない。けど、それとこれと何の関係があるんだよ」

美咲の声を聞いて走りだしてから、二人に起こされるまでの記憶はぽっかりと抜けている。美咲を助けたことも覚えてない俺が、助けた方法なんて覚えてるはずがない。

「これは私の推測だけど、白河くんは夢想具を発現したんじゃないかと思うの。だから美咲を助けることができた。だって、普通に考えてみて? 美咲の助けを求める声を聞いてから走りだして、あれだけの距離があったのに間に合わせたのよ? 普通だったら、間に合うなんて到底有り得ない」

「………」

「気を失っていたのも、制御できてない夢想具を無理に行使したからと考えれば辻褄が合う。実際、夢想具を発現したばかりの人は夢想具に振り回されがちだし、その延長線上が意識不明だとしても、何ら違和感はないわ」

「………」

「一定量以上の感情がカタチになることで発現できる夢想具。ならそれを御しきれなければ、感情に支配されて滅茶苦茶な行動や、それに対しての反動を引き起こしてしまうのも道理でしょう。多分、白河くんの場合は美咲を護りたいという想いが強すぎたんでしょうね。だから、助けられて安堵したことに対する反動が大きく出たんじゃないかしら」

確かに、俺が夢想具を発現できるほどの強い感情を抱くのは、美咲に関してが一番確率が高いと自分でも思う。そう思って見れば、状況は完全にそれを示している気さえする。

「百聞は一見に如かずよ。試してみればはっきりするわ」

「………」

俺が、夢想具を?

そうすれば、これからは鳥井と一緒に戦うことができるようになるかもしれない。

「――――ただ、夢想具を発現したのなら、これから先、今回の事件が解決しても平穏な生活は望めないかもしれない。それは『光をもたらすもの』に入ろうと入るまいと変わらないこと。だから、美咲や先輩たちとこれからも仲良くやっていきたいなら、止めたほうがいいわ。

それに、これは賭けになる。失敗すれば、最悪の場合一生廃人になってしまう可能性だって多分に孕んでいるんだから」

 これが本当の最後通告とばかりに、鳥井の目はいつにも増して真剣だった。

 それは当然のこと。ただの学生として、みんなと一緒に安穏と生きていける日々がどれだけ大切で、どれだけ掛け替えのないモノか、俺はこの数週間で身に沁みていた。

 平和な学院生活の中で共に過ごしてきた美咲に聡、葵先輩に悠夜先輩、それにその他の友達たち。環や店長、他のバイト仲間たち。みんなとの思い出が次々と浮かんでは消えていった。楽しい思い出に悲しい思い出、苦しい思い出に嬉しい思い出。ありとあらゆる感情に彩られたそれらは、星の瞬きのように美しかった。

 けれど、これから先のその未来(モノガタリ)のなかには足りない星がある。その星は途中から現れた。最初は俺にとって凶星でしかなかったのに、いつの間にか、その星はなくてはならないものになっていた。

「安穏とした生活も確かに大切だけど、そこにお前はいないだろ。俺は、たとえ危険であっても鳥井がいてくれるほうがいい。美咲がいて、聡がいて、葵先輩がいて、悠夜先輩がいて、環がいて、それから鳥井、お前がいて。そうして初めて、俺の生活(パズル)の掛け替えないもの(ピース)は揃うんだ。

だから、頼む。俺は戦うための力が欲しい。美咲を、みんなを護れるだけの強さが欲しい。お前のとなりに立つ資格が欲しいんだ!」

 だから俺は、剣を取ることを決意した。

 鳥井の瞳をまっすぐ見て、揺らぐことはないという思いをありったけ込める。

 知ってしまったことから逃げ出したくないと思う。それじゃあ、あの頃の俺と何も変わらない。この選択がどんな未来をもたらすとしても、俺は前へ進む。

「…………分かったわ。白河くんがそう決めたのなら、わたしはもう何も言わない」

 右手をまっすぐに肩の高さまで持ち上げて、目を閉じた。

 その手に、今は見慣れた闇よりもなお黒く昏い大鎌があった。

「夢想具に触れて目を閉じて」

言われたとおりにする。

触れた部分から伝わってくる黒い感情。これが鳥井のココロのカタチ。怒りよりも激しく、絶望よりも昏く、悲哀よりもなお冷たい。

(バカだな、俺は)

いつか、自分も夢想具が欲しいと言った時のことを思い出した。あの時の鳥井の言葉が、実感としてはっきり理解できた。鳥井の力は、こんな想いの果てにあったのだ。あの時はそれを知らなかったとはいえ、戻って自分をぶん殴りたいとさえ思った。

「今から白河くんの心を揺さぶるから、白河くんは自分のカタチを理解して、ソレを汲み上げて。それが出来なければ、感情に押し潰されて二度と戻ってこれなくなってしまうから」

「……分かった」

「――――始めるわよ」

鳥井がそう言った瞬間、脳を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。

 

次の瞬間俺は、血だまりの部屋を視ていた。

知らない誰かが3人、壁際で呻いている。さらに誰かが、その3人を日本刀で斬り付けている。死なないように、致命傷にならないように。

血が飛沫く。誰かが呻く。誰かが笑う。

「ぐっ……」

あまりに常軌を逸した光景に、吐き気が込み上げてくる。

けれど、縫い付けられたかのように視線は動かせない。自然、それを強制的に見せられる形になる。

「あははははははっ! あははっ! あっははははははははははははははははははははははっ!!

 甲高い笑い声が頭蓋に直接響いてくるようにさえ感じた。

 誰かが高々と日本刀を振り上げる。そして、勢いよく振り下ろした次の瞬間、

「……なっ!」

状況は一変していた。

次の光景は、見覚えがあった。淡い白で統一された俺の家の浴室。そこには、カッターで手首を切って自殺しようとしている女の子がいた。

「み……さき?」

見慣れた浴室の中で、浴槽に貯められた水だけが見慣れない色をしていた。

「美咲! 美咲ッ!」

イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ!

このままじゃ美咲が死んでしまう!

早くどうにかしないといけない。美咲を助けないと!

しかし、意志はあるのに身体は動いてくれない。見えない糸で空間に縫い付けられている錯覚すら覚える。

「動け! 動けよ!」

 早くしないと美咲が。美咲が!

 ありったけの力を込めて身体を動かそうとするが、指一本動かない。ただ水が段々と赤く変わっていく様を見せつけられる。

「動けよ! 美咲が死んじまうだろ!」

 しかし、俺の慟哭を嘲っているかのように、ピクリとも動いてくれない。

「動け――――――――っ! 俺が助けないで、誰が美咲を助けるんだ! 俺はお兄ちゃんなんだ! 妹を――――美咲を助けるんだっ!! 俺が美咲を……っ!!

 俺の身体なんて壊れたって構わない。美咲を助けることができるなら、何もいらない!

「だから……っ!」

 見えない力に逆らって、右腕を伸ばす。少し動かすたびに、神経を直接傷つけられたかのような深い痛みが脳髄を抉る。

「みさき――――――――――――――――――――っ!!

 届いた!

 俺は美咲の腕を掴んで浴槽から引っ張りあげた

 

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 はずの右手には、硬質な何かを掴んでいた。

思わず目を開けてみる。見下ろした右手には、夜空に瞬く星を鍛えたかの如き、白い輝きを放つ一振りの剣を握りしめていた。

「賭けは、ギリギリ成功みたいね……。なかなか戻ってこないから、正直なところ、ダメ

だと思ったわ」

「……これが、俺の夢想具」

「そう。これが、あなたのココロのカタチ。あなたの夢想具よ」

鳥井は荒い呼吸を繰り返していた。どういった原理かは分らないが、俺のせいで消耗したのは確かだろう。

 それでも鳥井は左手を胸に当てて、さらに言葉を紡ぐ。

 

「わたしがあなたのココロを護ってあげる。たとえ、この先何があったとしても」

 

 その微笑みと言葉を、俺は生涯忘れないだろう。優しさと強さを併せ持った、その微笑

みと言葉を。

 

 

「それじゃあ、わたしはそろそろ帰るわ。もう消灯時間も過ぎてしまっているし」

 そう言って帰ろうとするが、どう見たって鳥井の状態は万全とは言い難い。それなのに

一人で帰すことに、俺は不安を感じた。

「どうせ消灯時間は過ぎてるんだし、もうちょっと休んでから帰ったほうがいいんじゃな

いか?」

「ありがたい申し出だけど、ごめんなさい。早く帰って休んだほうが疲れも取れると思う

から」

 大丈夫だからと身を翻した鳥井は、この場から逃げようとしているかに見えた。一歩、

二歩と扉に向かって歩くその姿は、いつもの鳥井より随分と弱く感じられる。

 その原因は、俺のために無茶をしてくれた、その代償の疲労だけではないのかもしれな

い。もっと別の、例えば鳥井の原風景(トラウマ)に関係するような……。

「――――もしかして……」

 俺は不意に、あの光景が持つ意味を理解した。

 それを敏感に感じ取ったのか、ビクッと、ドアを開こうとしている背中が震えた。

「鳥井、あの――――」

「何でもないから!」

 吐き捨てるようにそう言って、鳥井は病室を飛び出した。

「待てよ!」

 俺も鳥井を追って部屋を飛び出す。

 消灯時間を過ぎた院内は暗く、ところどころで非常出口を示す緑光が灯っている以外は、

そうそう光は見つからない。

 そんな廊下に、鳥井の姿はもうなかった。恐らく、夜間用出入口に向かったのだろう。         

通常の診察時間が終わっている今は、正面入口は使えない。となると必然、病院から出る

にはそこを通るしかない。

 階段を駆け下り、廊下を走り抜け、出入口をくぐったところでようやく、今まさに病院

の敷地から出ようとしている鳥井を視界に捉えることができた。

「鳥井ッ!」

 あらん限りの大声で鳥井の名前を呼ぶ。

 俺の大声に道行く人たちが何事かと足を止める。しかし、肝心の鳥井は俺の呼びかけな

ど聞こえないかのように、足を止める気配は微塵もない。

俺は両足に力を入れなおし、再び鳥井を追って駆け出した。

名前を叫びながら走る俺に、周囲の人たちは奇異の視線を送ってくる。けれど、今はそ

んな瑣事に気を回している余裕はなかった。

ただ、前を走る背中を追うことだけに集中する。

 

しかし、それはいくらも続かないうちに終わりを告げた。

前を走っていた鳥井がやにわにしゃがみこんだのだ。

 それを見た俺は走るのを止め、息を整えながら、ゆっくりと鳥井に近づいていく。

 

 まだいくらも近づいていないが、それでも分かるほどに鳥井の呼吸は荒く乱れていた。やはり、あれだけ消耗した身体で走り続けるのは無理があったということだろう。

「鳥井」

 俺と鳥井との距離は、走り出す前と同じくらいにまで縮まっていた。

「だいじょ――――」

「来ないで!!

 その距離をさらに縮めようとした俺は、鳥井の言葉の槍で、アスファルトに縫い付けられた。

「それ以上近づかないで!」

 右足を踏み出したままの不格好な姿で固まった。

「どうして追ってきたのよ……」

 言外に、追ってきてほしくなかったのにという想いが如実に表れていた。

「心配だからに決まってるだろ。俺のせいで鳥井の調子が悪くなったんだから」

「白河くんには関係ない!」

「………」

 ……やっぱりそうなのか……。あの光景がお前の原風景なんだな。

 血で染められた部屋に、血塗れの親子、耳を劈く悲鳴。目を閉じなくてもはっきり思い出せる。

傍観者として見せられた俺でさえ戦慄を禁じ得ないアレを、幼い時分に当事者として体験したんだ。ましてや、殺されようとしていたのは鳥井の両親だろう。その痛みの深さは、俺には想像すらできそうもない。

それほどのことを、無関係の俺の口から語られるのは、鳥井にとって赦せることじゃないだろう。立ち上がって振り向いた鳥井は辛そうだった。握りしめられた両手は震えていて、双眸には昏いイタミを湛えていた。

「……そうだな」

 けれど、それでも言わなければいけないことがあった。

 人間はキモチだけをそのまま伝えることなんてできない。だから文字があって、絵があって、音楽があって、言葉がある。だから人間には“行為”がある。

 言葉は、その中でも一番不確かなものだ。けれど、上手くない俺はそれしかキモチを伝える術を知らないから。

 だからまっすぐに、まっすぐに。

「お前は、俺のココロを護るって言ってくれた。なら、お前のココロは俺が護る。たとえどんなことがあっても」

 一音一音、想いを込めて。

「俺がお前のパートナーになる。だから、俺を頼ってくれればいい。誰にも見せられない弱い自分がいるなら、俺にだけは見せてくれ。俺が、絶対にお前を護るから」

 ただ、その意志(おもい)が伝わるように。

「だからほら、部屋に戻ろうぜ。俺、一応入院患者だし、抜け出したのがバレたらマズいんだけど?」

 最後だけは、少し冗談っぽく。

「………。……訊かないの?」

「………」

 本当、俺は上手くない。

「何のことだ? 俺は、お前が疲れてるのに無理して一人で帰ろうとするから追ってきただけだぞ?」

 こんなことで誤魔化せるとは思ってないけど、あの光景はきっと、鳥井の心の最奥に秘められているモノのはず。だから、無理矢理知りたいとは思わない。いつか、鳥井が自分から話してくれる日を待とうと思う。

「せっかくお見舞いの品も買って来てくれたんだし、もうちょっとゆっくりしていけよ。って言っても、俺の部屋じゃないけどさ」

 そう言って先に歩き出す。

「――――ありがとう」

「? 何か言ったか?」

 その一言はしっかりと耳に届いていたけれど、聞かなかったことにしよう。今はまだ……。

「そうするわ、って言ったの。やっぱり疲れてるみたいだから」

 俺を追い越した鳥井は、振り返って一回目の答えを返した。

「そっか」

 あの光景は幻だ。俺が見た勝手な妄想で、あんなこと俺は知らない。例えそれが愚かな選択であったとしても、俺はやっぱり何も知らない。

 それがいい。いや、それでいいんだ。





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