それから10分後。
幸いサイレンの音は聞こえてこず、鳥井と神林さんが先に松永家に来ていた。
「無茶だと思わなかったのかしら?」
鳥井は開口一番そう言った。
「もしかしたら死んでたかもしれないのよ?」
「………」
鳥井の言っていることは正論だが、こと犯人在宅の可能性に関しては皆無だと思っていた。およそ人間の、いや、生物が存在している生活感とでも言うべきものが、松永家からはまったく感じられなかったのだから。
言うなれば、空気が死んでいる状態。
「鳥井くん。白河くんも無事だったのですから、少し落ち着きましょう」
神林さんはいつもと同じ調子で鳥井を諌める。
「……はい」
「それにしても。……変われば変わるものですねえ。あの鳥井くんが……」
それは、最初に見たときからは考えられないほど自然な笑みだった。
「神林さん。それは……」
「そうでしたね。すみません」
今のやり取りは何だったのだろう?
不思議に思って鳥井を見るが、すぐに視線を逸らされてしまった。
「さて。それでは白河くん。詳しく聞かせてもらいましょうか」
「あ。はい」
横目でもう一度鳥井を見る。その顔には少しの安堵が浮かんでいた。それだけ俺に聞かれたくないことなのだろうか。気になったが、ひとまず意識から追い出し話し始めた。
一通りの事情を説明し終えると、神林さんが口を開いた。
「ふむ。一階で止めたのは正解でしたね。話を聞く限りでは、感染の可能性が一番高いのは娘である松永麻衣子でしょうから」
「それだと少しおかしくありませんか?」
鳥井も話に加わってくる。
「わたしたちは昨夜夢幻世界を確認しています。白河くんの言っていることが事実だと仮定すると矛盾します」
それは俺も気になっていた。
俺たちは昨夜確かに夢幻世界が現出していたことを確認している。もし、その夢幻世界が松永先輩のモノであった場合、必然的にリビングの肉塊は松永先輩の作ではなくなるはずなのだ。
これは一体どういうことなのだろう?
「簡単なことですよ。感染者が複数いたということでしょう」
信じ難いことをさも当然のことのように言う。
「極めて珍しい事例ですが、可能性がないわけではありません。前例もありますからね」
「…………椿館。事実だったんですね」
椿館。その名前には聞き覚えがあった。
今から5年ほど前に起こった大量殺人事件の舞台がそこだった。
旧華族の流れを汲む大富豪である椿姫(つばき)家の館でそれは起こった。当日椿館に居合わせた全ての人間、総勢17人が惨殺されたのが、5年前の椿が咲き誇るちょうど今頃。殺された人物リストの中に皇族関係者がいたことから異例の捜査員数が動員されたが、結局犯人を捕まえることができなかったこの事件。今でも捜査は続いているのだが、何の進展も見られないと、以前見た報道特番で語られていた。
確か犯人の物と思しき血の足跡がホールと中庭に残っていたのだが、そのどちらもそこで足跡が急に途切れていたとのことだった。周りには飛び移れるような物もなく、本当にぷっつりと足跡が途切れているらしい。
現代最高峰の不可解殺人として今もそのテのHPでは熱く舌戦が交わされていると聞く。
「あの事件の犯人が感染者だったって言うんですか?」
「おそらく間違いないでしょう。当時の報告書にも、椿館の近辺で夢幻世界が確認されていることが書かれていますから」
犯罪史上類を見ないほどの事件の犯人が感染者?
もし以前の俺なら漫画の読みすぎだと笑い捨てただろう。しかし、ウィルスの存在を知ってしまった俺には、到底否定できそうもなかった。
「何にせよ。見てみないことには答えは出せませんね」
「そうですね。白河くんはどうする?」
その顔は、先ほどまで俺を心配してくれていた友人としての顔ではなかった。静かな怒りを湛えた復讐者の顔だった。
「俺も、行く」
俺には死体の第一発見者としての責任がある。取り乱した汚名を返上したいという意地もある。そして、何より強い意志があった。
「そう。死なないように注意は怠らないで」
「それでは、僕と鳥井くんで白河くんを挟む形で行きましょう」
今一度あの家へ入る。
自分で決めたことだが、気遅れしないと言えば嘘になる。あの肉塊に恐怖を覚えてることも否定しない。
「行くわよ」
それでも、今の鳥井を一人にすることへの不安のほうが強かった。
「ああ」
まずはキッチン。ここは、先ほどと特に変わったところは見受けられない。
止まらず、そのままリビングへと向かう。
俺が開け放ったままだったドアが、愚者を嘲るように大口を開いて嗤っているかのよう。その口内には、今も肉塊と血のワインを食していた。
「……グッ」
右手で口を覆う。二度目ではあるが、やはり、そうそう慣れるモノではなかった。鳥井も、入るまでは冷徹だった表情を歪ませていた。しかしただ一人神林さんだけは、ほんの僅かも表情を変えない。冷静に、いっそつまらなさそうにソレを見下ろしていた。ソレが人間であったという事実など元よりなく、この状態のまま、奇怪な肉塊(オブジェ)として存在していたかのように。
「これだけでは判断しかねますね。他の場所も調べてみましょう」
俺は、このとき初めて神林さんの一端を垣間見た気がした。覗き見ることが叶わないタルタロスのようだと思った。
「はい」
調べた結果だけ言うなら、一階はリビング以外にこれといった異常は見つからなかった。和室やバスルーム、果てはトイレまで調べたが何も見つからなかったのだ。
次は二階。ここからが本番だった。
一階には年頃の女の子の部屋はなかった。ということは、見上げる階上にあるはず。そこが、もしかすると今回の騒動の元凶の部屋の可能性もある。俺はもう一度気を引き締めなおして。一歩階段を上った。
二階には3つの部屋があった。
向かって右側。つまりリビングとキッチンの上に一部屋ずつ。そして一階の和室がある場所に一部屋。一階よりも狭い造りになっていた。
まずはリビングの上にあたる部屋のドアを開ける。
シングルベッドが2つ並んで置かれているだけで、特に何もない。鳥井がクローゼットの中も確かめるが、洋服やスーツがハンガーにかけられているだけで、特におかしなところはなかった。
外から見た限りでは、この家にベランダらしき物はなかったはず。なら、この部屋に隠れられる場所はもうない。
部屋を出て、次なるドアを開く。
そこは、どうやら客間らしかった。必要最低限の家具だけが配置されたその部屋は、ただそれだけで寂寥感を抱かせる。積もった埃も他の部屋より多い。ずいぶん長い間使われていなかったのだろう。クローゼットや押入れの類もないし、隠れられる場所はない。
ドアを閉めて一息つく。ここにも何もなかった。
残るは和室の上にあった部屋だけ。
そこは、他の部屋とは明らかに趣が違っていた。淡い白の壁紙以外、カーテンやベッドシーツなどはブルー系の色で統一されていた。テレビやパソコン、それに小さな冷蔵庫もある。
ここが松永先輩の部屋であることは間違いなかった。
「……もぬけの殻。遅かったの?」
悔しそうに唇を噛む。
「違いますね」
しかし、神林さんはそう断じた。
「違うって、何が違うんですか?」
「感染者は、やはり複数人いたということです。よく見れば分かります」
言われて、俺も室内を見渡した。
左手側の壁際にはベッドが置かれ、部屋の右側にはテレビや本棚がある。ベッドの足側の壁には備え付けのクローゼット。正面の壁際には机と、その横にパソコンと小型の冷蔵庫。そのどれも、取り立てて変わったところは見られない。部屋の主が外出しているだけと言われればそれで納得できる。
「……!」
否。納得なんてできるワケがない。
ファーストステージはずっと眠っているはずだから、ベッドから動けるはずがない。以前にセカンドステージに移行しているとするなら、それは一階の死体の死亡日時と同時期と考えるのが妥当だ。そのどちらにしても、この部屋はおかしい。他の部屋と比べて埃が少なすぎる。それも限定的に少ないとなると、つい最近セカンドステージになった可能性が高いと言っていいだろう。
「神林さん! 落ち着いている場合じゃないです!」
鳥井が鋭い声を上げる。
そう。落ち着いている場合じゃない。
もしセカンドステージへの移行完了が事実だとすれば、被害者は爆発的に増加する恐れがある。セカンドステージは感染者の意思とは無関係に人を襲う。急がないと取り返しがつかないことになってしまう!
「わたしは先に行きます!」
言うが早いか、鳥井は部屋を飛び出していった。
俺も後を追おうと部屋を出る。
「待ちなさい。今の君が行ってもどうにもなりません」
それを神林さんが制止する。
「だからって行かないワケにもいきません! 手分けして探せばそれだけ被害が減る可能性だって上がります!」
2人で探すより3人で探すほうが見つかる可能性は高くなる。単純な理屈だ。それに、もし感染者と鳥井が先に出遭ってしまったら……。
「分かりました。ただし、見つけ次第速やかに連絡してください。そして、可能であればコレを飲ませてください」
神林さんが懐から取り出したのはピルケースだった。
それを俺に投げてよこす。中には何錠かカプセルが入っていた。
「これは?」
「適応者に強制的に夢幻世界を現出させる薬です。服用させれば一般人への被害はほぼ皆無になると言っていいでしょう」
「分かりました。それじゃ、先に行きます!」
†
「それにしても」
僕は一人になった部屋で一人ごちる。
何かがおかしかった。どこかがおかしかった。まるで、ピースが間違っているのに完成してしまったパズルのように。
感染者は複数人。
これは間違いないと断言できる。問題はその後。昨日の夢幻世界は、部屋の様子から見て松永麻衣子で間違いないはず。なら死体は?
…………………………
「まさか」
ある仮説が浮かび上がる。
「もしそうであったとしても今は何もできませんか。仕方ありません。感染者確保に向かいましょう」
†
わたしは近場で人が多そうな場所を探していた。
御歳市にやってきて20日ほど。少しはこの町にも詳しくなっているけれど、それでも駅の西側は知らない場所が多い。まだ旧市街と呼ばれる場所は警邏していなかったのだからそれも当然だった。
町を駆ける。どこも至って平和。何らかの事件が起こっているようには見受けられない。感染者は一体どこに消えたというのだろう。
周囲を見回しながら疾駆する。
感染者を野放しにするワケにはいかない。これ以上わたしの手の届く場所でわたしのような存在が増えることに耐えられなかった。
もちろんウィルスは憎い。どれだけ消滅させても飽き足らない。けど……。
頭を振って余計な考えを頭から追い出す。
今はこんな感傷に浸っている場合じゃない。そんな余裕があるのなら、少しでも早く見つけられるようにしなければいけない。
「一体どこに……」
立ち止まると同時に、サイレンの音が聞こえてきた。
反射的に音の発生源を探ると、それが救急車のものであることに気がついた。
……もしかして。
感染者関連かもしれないと考えているあいだに、救急車は高い音を撒き散らしながら目の前を通り過ぎる。
呆けている場合じゃないわね。行く先を確かめないと。
chapter-6