chapter-5

「お兄ちゃん。早くしないとなくなっちゃうよ!」

 スーパーの食品売場を急ぐ美咲。俺は数歩遅れて美咲の後ろを歩いていた。

 せっかくの休日になぜこんなところにいるのかというと、それは今日がスーパーの特売日だからだった。

 朝早くに文字通り叩き起こされた俺は、今から買い物に行くという美咲に付き合わされるハメになった。

「で、何を買うんだ?」

 先を歩く美咲に並んで問いかける。

「今日は……卵と牛乳でしょ。それからお肉と、あとお豆腐かな。お一人様一点限りだから、お兄ちゃんも買わないとダメだよ」

「はいはい」

 

「特売の卵はこっちだよ。それ違うよ、お兄ちゃん」

「お兄ちゃん。それダメ! 賞味期限こっちの方が遅いよ」

「ダメだってば! そのお肉グラム表示じゃない。それ全然安くないよ」

「もう! そんなに乱暴に扱ったら崩れちゃうってば!」

 

 幸い……とは言い難いが、目的の物は全部買い求めることができた。改めて自分の買い物下手を認識することとなったが。

 それにしても、朝早く出てきたのに残り少なかったのは、さすが特売日というべきなのだろうか。

「そろそろ帰ろうぜ」

 両手にビニール袋を提げ、まだ商品を物色し続ける美咲に声をかける。

「ゴメン、お兄ちゃん。もうちょっとだけ待って」

 しかし、美咲はそれだけ言って物色する手を止めようとしない。

 果物カゴを見比べて唸っている。

「何探してるんだよ?」

「お見舞いの品をちょっとね」

「お見舞い?」

「うん。松永先輩の」

「誰だ、それ?」

「松永麻衣子先輩。弓道部の先輩なの」

 美咲の話はこうだった。

 先輩が今月に入ってから部活に顔を出さなくなったらしい。両親は学校に何も言ってこないので大きな問題はないと思うが、どれだけ電話やメールをしても反応がないので、さすがに心配になったらしい。

「美咲。その先輩の家ってどこだ?」

 嫌な予感がした。

「中央商店街を南に行ったところだよ。たしか……」

 ケータイを取り出し素早く操作して、電話帳に登録してある住所を表示する。

「御歳市新町10422

 新町ってことは旧市街か。

「どうかしたの? お兄ちゃん」

「いや、何でもない」

 口ではそう言うものの、最初に感じた嫌な予感が拭えない。

 二月に入ってからの休み。

 住所は旧市街。

 そして音信不通。

 可能性は多分にある。

 学生全員の情報を把握するのは到底無理だとしても、こればかりは確認することに思い至らなかった俺の失策だった。

「もしかして、ついてきてくれるの?」

「ああ。まあ、な」

 

 

 一旦荷物を置きに家に帰り、そのまま街にとんぼ返りして件の先輩の家へと歩いて行く。

「ここみたい」

 美咲が立ち止まったのは、ここ一帯に多い建売住宅の一つだった。

 周囲の家と比べても取り立てて特徴のない二階建ての一軒家。

 据え付けられたインターフォンを美咲が鳴らす。

 しかし、何度鳴らしても反応はない。

 

 ピンポーン

 

 これで何度目か分からないチャイムの音が空しく響く。

 門扉は固く閉ざされ、人の気配が全くない。それに、少なくとも外から見ることができる範囲は雑草が支配し、季節の花が植えられるのであろう花壇は、見る影もなかった。

 

 ピンポーン

 

 視線を上げると、全ての窓にカーテンが閉められていることが確認できる。周りの空気が澱んでいる気さえする。

 そのせいか、家の外観がどことなく朽ちた墓標を想起させた。

「美咲。これだけ待っても出てこないんだ。家にはいないんじゃないか?」

「……うん。そうみたい。出直そうか」

 言葉とは裏腹に、その目は諦めきれないとインターフォンから離れない。

 もしかすると、美咲も何か不吉な印象を感じているのかもしれない。

「雪ちゃんにでも言って、家庭訪問してもらおう」

「…………うん」

 渋々インターフォンから離れる。

「俺はこれから約束があるから、美咲は先に帰っててくれ」

「分かった。わたしは部活があるから出ていくけど、あんまり遅くなっちゃダメだからね」

「ああ。分かってる」

 互いに手を振り、美咲は東に、俺は西に歩を進めた。

 

 もちろん約束なんてのは嘘だ。

 何度か道を曲がって辿り着いたそこは、さきほど訪れた松永家。その裏側だった。

 人が見ていないことを確認してから、ブロック塀を乗り越えて敷地内に侵入する。着地した低い姿勢のまま今一度神経を研ぎ澄ますが、やはり人の気配はしない。

 シュレディンガーの猫のように、何れの可能性も同じだけある。

 だが、箱の中を確認したときに何れの可能性が存在していても、俺にはどうすることもできない。

 確率は恐らく一番低いだろうが、一家全員が生きていたとしたら、これはもう万々歳だ。何もできることがないという以前にする必要がない。

 中で異常事態が起こっているとしたらどうだろうか。

可能生の一つである普通の異常事態の場合は素人の俺には何もできない。おとなしく警察に連絡するしかないだろう。

次に三つめの可能性であるウィルス関係ならどうか。この場合も鳥井と神林さんに連絡することしかできない。

不甲斐なかった。どうしようもなく。

できることは本当に何もないのか?

 

目の前には裏口がある。

それなのに、俺はただ漫然としているしかないのか? 一般人である俺には。

思考が澱んでくる。浮かぶのは二人の顔。それ以外はノイズ混じりで何も視えない。こういうときは案ずるより産むが易し、だ。

意を決して、俺はドアノブを静かに回した。

 

ドアを開けて侵入する。

裏口から繋がるキッチンの電気は消えており、昼だというのに薄暗かった。

靴を脱いだ足で、板張りの床を軋ませる。

空気は埃っぽく、甘い臭いが充満していた。音もせず、静寂。

まずはキッチンの電気をつける。

テーブル。システムキッチン。冷蔵庫など、一見しておかしなところは……ない。

床を軋ませながら移動する。

一歩、また一歩、慎重に進んでいく。

システムキッチンの内側に入ると、ようやく一つ異常が見つかった。

シンクに埃が積もっている。指で一なぞりしてみると、かなり埃が積もっていたのだろう、なぞった場所と、そうでない場所の色が明らかに違う。

これだけ埃が積もるのは、一週間程度ではあり得ないだろう。おそらく一月以上ここは手つかずだったように見える。

 次に冷蔵庫を開けて中を見る。

 後で自分の行動を思い出して自己嫌悪しそうな気がするが、こればかりは仕方ない。案の定、そのどれもが賞味期限ギリギリ、あるいは切れている物がほとんどだった。

もう決定的だった。

 ただ家を空けるだけならこの冷蔵庫の中は明らかにおかしい。これが空っぽであったのなら、まだ旅行や里帰りと自分を強引に誤魔化すこともできたのだろうが、これだけ多くの物が揃っていて、なおかつそのほとんど賞味期限が切れているとなれば、購入時はこんな状態になる予定はなかったということ。

 

 ドアを開けて廊下に出る。鼻を衝く臭いが、一際強くなった気がする。甘い臭いに混じって、形容し難い異臭も漂っている。

 狭い廊下の先には玄関が見える。廊下ももちろん灯りは点いてない。窓がない分、薄暗さはキッチンより上だった。

 造り的に、左手側の部屋はおそらくリビングだろう。右手側奥には二階へと続く階段も見える。

 順番的には、次はリビングだと思われる部屋か。

 神経をより研ぎ澄ませて、ドアの内側の様子を探る。ここにも人の気配はしない。だが、異臭の発生源はここだ。ドアの前に立つと、先ほどよりも不快感を増した異臭がする。

 息を吐き出して心臓の鼓動が落ち着くのを待ち、スライドドアを開け放つ。

 

「うわああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ―――――――――――――――――――――――――――――ッ!!

 自分の喉から出たのが信じられないくらいの絶叫だった。

 目の前にある光景は想像を絶していた。

床も、壁も、天井も、テレビも本棚も観葉植物もソファーもテーブルもカーペットも電球も電話もありとあらゆる物が赤い。

 

 赤い。朱い。紅い。緋い。赫い。赤い。朱い。紅い。緋い。赫い。赤い。朱い。紅い。緋い。赫い。赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤赤赤赤赤紅赤赤赤赤赤赤赤赤赤朱赤赤赤赤赤緋赤赤赤赤赤赤赤赫赤赤赤赤赤赤赤赤。

 

 それ以外に表現しようがなかった。

 気がついたときには、床を向いていた。胃液が逆流して喉を焼く。涙まで溢れてくる。

 

 外まで懸命に逃げた。

 裏口のドアを力任せに閉め、その場にへたりこむ。気持ち悪さは収まらない。赤が網膜に焼き付いて離れない。

 アレは何と形容すればいいのだろう?

 ミートボールのブラッディソース仕立て? それともカルパッチョのブラッディ和えとでもいえばいいのか。

 アレを料理した殺人者(シェフ)はかなりいい趣味の持ち主らしい。ホント、素敵すぎて吐き気が絶えない。

 

 …………………………

 

 へたりこんだ体勢のまま、時間のたつことおよそ5分。

 ようやく落ち着いてきた。

 まだ赤い色が目から離れないが、吐き気は治まってきたし、少しずつ正常な思考も戻ってきたと思う。

 すると、先程の絶叫が甚だマズいことに気がついた。

 通りは休日ということもあってか、人通りもなく、俺の声を聞きとった者はいなさそうだが、隣家にも人がいないとは限らない。もし俺の声が聞かれていれば、最悪警察に通報されることもあり得るだろう。そうすれば俺は、容疑者とまではいかなくても重要参考人として引っ張られるのは目に見えている。

 そうなる前にやるべきことは……。

 俺はサイレンの音が聞こえてこないか周囲の音に気を配りつつ、鳥井の番号を呼び出してコールする。

 

 トゥルルルルルルル

 

 トゥルルルルルルル

 

 トゥルルルルルルル

 

 たった数秒がもどかしかった。

 

『はい。鳥井です』

 出た!

「鳥井! 今から言う住所にすぐ来てくれ!」

『どうしたの。急に?』

「実は……」

 俺は松永家を訪れることになった事情と、その後の展開を全て話した。

『……可能性は有るわね。すぐに行くから少しだけ待っていて』

 そう言うと、鳥井は通話を一方的に終わらせた。





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