chapter-3
パチン
ケータイを開く音が冷えた夜気を震わせて溶けていく。
「どうかしたのか?」
ここは俺の家からほど近い児童公園。夜、警邏に出るときはここに集まることに、以前鳥井の家で話したときに決めていた。
その中の一角に据え付けられた街灯を背に鳥井は立っていた。
夜だからなのか、それとも何か別の理由があるのかは分からないが、普段見せるそれよりも厳しい表情をしていた。
パチン
俺の問いかけには答えず、畳んだケータイを見つめている。
「鳥井?」
「……ごめんなさい。何でもないの」
何でもないわけはない。そう思ったが、ケータイから顔を上げた鳥井の表情が、いつか見たあの表情だったせいで、何も言えなくなってしまう。
「それで。何の話だったかしら?」
「……戦闘になったらどうする? って話だ」
俺は鳥井が持つような夢想具は持ってない。相手が使徒ならまだいい。夢幻世界内にある物で対抗できるのだから。けれど、ウィルスが相手となればそうはいかない。
『ウィルス自体を攻撃することができるのは夢想具だけなの』
あのとき鳥井はそう言っていた。
『ウィルスを攻撃することができるのは精神の産物である夢想具だけなの。ナイトメアウィルスと夢想具の間に何か関係があるのは明白だけど、現時点では分かってない。分かっていることは、ウィルスによって何がしかの被害を受けた者のみが夢想具を発現できるということ。発現にはおそらく感情が関係しているだろうこと。そして、夢想具それぞれには特殊な効力が備わっているということね』
『それって、条件さえ満たせば俺でも発現できるってことだよな?』
『ふざけないで!! あなた自分の言ってることの意味が分かってるの!?』
俺が不用意に口走った言葉に対して激昂する鳥井。その理由は考えなくても分かることだった。
鳥井はウィルスのせいで家族を失った。鳥井が発現する夢想具は、そのときの感情がキーになっていることは想像に難くない。鳥井にしてみれば、たとえ俺がそこまで考えが及んでいなくても、自分から夢想具が欲しいだなんてことは絶対に口にしてほしくない言葉だったろう。
それきり鳥井は黙ってしまった。
「使徒が相手なら、わたし一人でまず問題はないわ。悪夢溜まりは避ける。ウィルスが相手なら、白河くんは逃げてちょうだい」
「それは――――」
それはなしだろう。何のために手伝っているのか分からなくなる。
そう反論しようとした俺を目で遮る。
「命を落とす可能性だってあるのよ」
最悪の結果が目の前に提示される。
そう。これはゲームではないのだ。死んだからリセットというわけにはいかない。命は、まず何をおいても優先すべきもの。逃げるのは決して恥ではないのだから。
「……分かった」
夢幻世界内では鳥井の言うことに従う。これもあのときに決めたことだった。夢幻世界のことは鳥井の方がよく知っているのだから、指示に従うのはある意味当然のことだと言えた。
「じゃあ、そろそろ行きましょう」
「だな」
公園から闇を湛えた街へと踏み出す。
まだ昏さは感じなかった。しかし気は抜けない。夢幻世界はいつ何時現出するか分からないのだから。
公園の出入口から伸びる住宅街を分断する道は静まり返り、ただ切れかけた街灯だけが不快な聲で鳴いている。道の両脇に建つ家々は、その一つ一つがそれぞれのエデンの如く。しかし、開発に開発を重ねたここ一帯は、クノッソスのラビュリントスのようで。まるで今の俺たちの状況を暗示しているみたいだと思った。
「アリアドネから糸玉を貰いたいところだな」
ポツリとこぼしたのは不安の現れだったのだろうか。
「なに? 急にギリシャ神話?」
「ああ。ここは迷いやすいからな」
「必要ないわ。ミノタウロスを倒せればそれでいいから」
「……そうかよ」
それはこの住宅街に数多ある十字路の一つに踏み込んだときだった。
空気に粘性が生まれたかのように息苦しさが増し、周囲に昏闇が降ってくる。
「気を引き締めて」
「ああ」
素早く周囲に視線を走らせる。
東。公園へと続く道があるだけで、変わりはない。
西。道が入り組んでいるだけで、東と同じく何も変わったところはない。
南。住宅街の中心部に向かう道標のように、ところどころの家から光が漏れている。
北。この道の先は袋小路になっているせいで把握しきれないが、今は変化は見られない。
どの方向にもおかしなところは……。
何か引っかかって、もう一度周囲を見回す。
………………
光? 夢幻世界の内で?
「――なぁ、鳥井」
「黙って。……来たわよ」
鳥井は東へ伸びている道の先を睨んでいる。
その視線を追うと……
「……猫?」
そこにいたのは一匹の黒猫だった。
闇に溶けているかのようにその輪郭ははっきりしないが、あれは確かに猫だ。
「油断しないで。アレも使徒よ」
アレも!? 使徒は全部人の形をしているものだと思っていた。
鳥井は諸手に大鎌を握り、臨戦態勢を取る。対する黒猫は動かない。
――ナ〜……
一声鳴いただけで、向かってくるわけでもなく、かといって逃げるでもなく、ただただ不動。不気味、と言えばあまりに不気味。
鳥井も同じことを思っているのか、大鎌を握る姿にいつも以上の警戒が見てとれる。
――ナ〜……
どれくらいそうして睨み合っていたのかも分からなくなったころ、もう一声鳴くと、黒猫は踵を返して闇の中に紛れて消えていった。
その場には、立ち尽くす俺たちだけが残る。
「…………何だったんだ。アレは?」
公園で湧いて出た、猪突に襲い掛かってくるだけだった人型の使徒と違って、明らかな知性が有るように感じた。鳥井から聞いた情報ではそんなことはあり得ないはずなのだが、どうしてもその印象が拭えない。
鳥井にも分からないのか、少し呆気にとられたような、それでいて何かの禁忌に触れたかのような顔をしていた。
「……戦闘にならなかったのだからよしとしましょう」
「……そうだな」
腑に落ちない感じを抱きつつも、気持ちを切り替える。
「それに、ココはハズレみたいだしな」
「ええ。そうね」
夢幻世界の内で人工の光が見えるということ。それは夢に綻びがあるということ。それは転じて感染者がこの辺りのことをよく知らないということに他ならない。
注意深く周囲を観察してみると他にも、感染者がこの迷路街に暮らす者ならあり得ないはずのことがあった。とある家と家の間にあるはずの道がなかったり、本来なら繋がっていないはずの道が繋がっていたり――
ふっ、と、急に世界の明るさが増す。
どうやら夢幻世界が消えたようだった。
「こんなとこで二人して何やってんねん。深夜のデートか?」
不意に、聞きなれた声がまだ静寂の残響を残す耳に届いた。
「聡? 何でこんなところに……」
「そりゃワイのセリフやっちゅーねん」
「……俺は鳥井が迷ったってメールしてきたから助けにきたんだ」
「ふ〜ん。さよか」
それ以上追及する姿勢を見せることもなく、話題を切って捨てる。
「で。そういうおまえは何やってんだ?」
「ワイ? ワイは友達んとこに遊びに行ってた帰りや」
「……そうかよ。それじゃ、俺たちはもう行くから」
「おう。またな」
†
月明かりで浮かび上がる、二人が去っていく姿を目に焼き付けるかのように見続ける。第三者が見れば恋人同士に見えるかもしれへんけど、二人を知ってる者としては絶対に抱くはずの無い感想やと思う。それやのにそう思ったんは、一体なんでなんやろう。
「ワイの悪いクセやな」
一人ごちる間も目は二人の背中から離れずに。
その途中、ポケットの中でケータイが震えだした。
「ホンマせっかちやな〜。あの人も」
ため息を吐きつつ、自己の存在を主張し続けるケータイを取り出す。
ハッキリ言って苦手な相手やけど、無視するわけにもいかへん。そないなことをしたらどうなるかなんて、火を見るよりも明らかや。
「はい。神谷聡」
†
「ビックリした……」
早足で最初に集まった公園まで戻ってきて、ようやくその感想を吐き出した。夢幻世界から解放されたら、すぐ近くに友人がいたのだから無理もないことだと思う。
しかし、驚いてばかりいるワケにもいかなかった。
「……白河くん」
鳥井が言いたいことは分かっていた。
聡は声をかける以前から俺たちの近くにいたのではないか、ということだろう。
そう。夢幻世界の内にいたときから……。
「…………俺は、違うと思いたいけど」
「思いたい、ね」
口から出たのは、否定ではなく願望だった。
あの状況では、嫌疑をかけられているのが親友であったとしても否定することはできなかった。聡が友達の家に行っていたという言が事実だとしても、突然出てきた俺たちに疑問を持たなかったこと自体がそもそもおかしいと言わざるを得ないのではないか。
もちろん、ただぼうっとしていて気づかなかった、というのも大いにあり得ることだろう。深夜にほど近い、それも迷路街での遭遇だったのだからなおさらだ。
「――――思いたいというだけなら、わたしだってそうだわ」
俺はその言葉に驚かなかった自分に驚いた。
鳥井はウィルスを憎んでいるし、実際何があろうと――たとえ世界がその存在を是としても赦すことはないだろう。それは最初に俺と逢ったあの時のあの行動。疑わしきは罰せよ、という行動理念からも十分に読み取れる。
「変わることは、罪なのかもしれないわね……。これも白河くんのせい……いえ、おかげかしら」
夜空に波紋を浮かべるように、トウメイな色のシズクが落ちていく。
「白河くんに逢えたからわたしは弱くなって、その分強くなれたのかもしれない……」
「? それ、要はプラマイゼロってことなんじゃないのか?」
「さあ、それはどうかしらね」
言葉と同時に浮かべた満月のように静かで綺麗な笑顔は、今まで見たなかで一番の笑顔だと思った。
「…………それはそうと」
しかし、凪のように穏やかだった鳥井に突然波が起こった。
「わたしが助けを求めた、というのは心外ね」
どうやら、俺がとっさに吐いた嘘が気に入らなかったようだ。
「どうせなら白河くんが迷ったことにすべきだったわ」
「それじゃ説得力がないだろ」
「それはそうだけど……」
変なところで負けず嫌いな鳥井だった。
†
「あぁ〜。ハラ減った〜……」
間もなく太陽が頂点に達しようかという時刻。白河家のリビングに情けない声が響いた。
期末テストを明日に控えた今日、学院の授業は午前中のみで放課後を迎えたので、そのまま勉強会を開くことと相成った……のだが、開始数分も経たないうちに聡がやる気を無くしていた。第一ラウンドでタオル投入寸前といった感じだ。
「7回あるうちのたかが1回やで。もっと気楽にいこうや」
一学期の中間と期末。二学期の中間と期末。三学期の期末。それに加えて2回の総試――通称、前試と後試――の計7回が、黎明館学院では実施される。総試が加わる分、世間一般の高校より2回多くテストが実施される。
通常の定期テストでは、赤点3つ以上で補習確定、5つ以上で留年確定。まあ、留年はここにいるバカの愚行のせいで廃止されたけど……。
総試のほうはというと、そんなに重いペナルティは科されない。せいぜい赤点5つ以上で体育祭や黎明祭――いわゆる学祭――への参加不可といった程度だ。
まあ、先生によっては恩情でお目こぼしをくれたりもするので、このペナルティを科された生徒はほとんどいないらしいが。
そういう意味で言えば、一年の間に行われるテストにおける総試の比重は大きくない。
「大体、今集まってる連中の中で必死こいて勉強せなアカンのなんかおるか?」
聡の言い分は、ある意味正しい。
美咲と悠夜先輩は共に全国クラスの成績なので言わずもがな。鳥井も授業中の様子を見る限りでは、赤点には縁遠そうだ。聡はこう見えて学年でもトップ5に入る秀才だし、葵先輩も同じくだ。
「あ。一人だけおったな」
ニヤニヤという形容詞がピッタリな顔で俺を見る。
赤点ギリギリの成績か、という意味では問題ないが、確かにこの面子では一段下であることは確実だった。
「しーたんは変なところで不真面目だからね〜」
……この二人に言われるのは、他のヤツに言われる数倍腹がたつな。
普段が普段なだけに言い返したくなるが、事実なので言い返せない。
「お兄ちゃん、日本史だけはスゴイのにね〜」
「そうだな。一科目だけとはいえ、全国模試でトップを取るのは容易じゃない」
次に来たのは全国クラスからの褒め言葉。
二人のほうが明らかに成績がいいのに、そう言われると俺の立場が微妙になる。
というより、まるで示し合わせたようなタイミングでの口撃に、俺は項垂れるしかない。
「白河くん。雑談は成績優秀な人達に任せて、わたしたちは勉強しましょう」
「……そうだな。今度のテストで目に物見せてやる」
「ほ〜。言うやないか。ほんだら一勝負といこか」
俺の悔し紛れの言葉に反応する聡。
「いいねいいね♪ ボクもその話乗った。みあっちもみっきーもユーヤも乗るよね?」
そして、それに乗っかりなおかつ話を大きくする葵先輩。
「はい♪ 当然乗ります」
「まあ、たまにはこういう余興も悪くはないか」
「……断っても無意味ですから」
「よし。全員参加ね。それじゃ、ルールと罰ゲーム説明するよ。ボクたち上級生組はみんな国立コースで、一年のみっきーは全教科あるから、五教科十科目のうち、教科ごとに高得点の科目で計算して500点満点で勝負。罰ゲームは、総合点数最下位の人のオゴリで、メープルハウス食べ放題でいこう!」
トントン拍子で話が進む。
……もしかして俺、自縄自縛?