「……ふわ……」
読んでいたハードカバーから顔を上げ、あくびを一つ。
ここのところの慌ただしさのせいですっかり忘れていた学院付属の図書館から借りていた五冊の本の存在を思い出したのが昨日の夜。返却日が明日――つまり今日だ――だったので、一睡もせずに読み耽っていたせいで眠気がひどい。
四角く切り取られた鈍色の空も、眠気に拍車を掛けていた。
「朝っぱらから辛気臭い顔しとんなぁ。もっとワイのように明るくせぇや!」
そんなときでもお構いなしに声をかけてくる聡を見上げる。
いつものハイテンションは、こんな気だるさを感じさせる日でも顕在だった。
「大体、そんなモンばっかり読んどるからそんな顔になんねん」
そう言って、机の上に置かれたハードカバーを目で示す。その表紙には、『御伽噺の殺意』と印字されている。俺が好きな小説家の最新作だ。
「人が人を殺す話の何が面白いんやっちゅうねん」
「いいだろ。好きなんだから」
「そりゃま、蓼喰う虫も好き好きやけどな」
今まで何度となく繰り返してきたやり取りは、御多分に漏れず今日も変わらなかった。
「そんなもんより――――」
「おはよう。白河くん」
聡が何か言おうとしたのと、その声が聞こえたのは同時だった。
最初に出会った頃とは違う、透明なのは同じだが、何て言えばいいのだろうか。最初の頃がガラスのような硬質な透明さなら、今は清水、いや雪解け水のように思える声。
「おはよう。鳥井」
聡から目を放してとなりを見た。
今どき珍しい腰まで届く濡烏の髪に、新雪に似た肌の白さのコントラストは、神話の時代ならそれだけで人間の創造が神の御業によるものだという証拠になるようにすら思える。
化粧っ気のない――というより、必要ないほどの眉目秀麗な顔には、普段は浮かべないような微笑を形作っていた。
「白河くん。日本史の課題は解いてきた?」
「ああ。解いてあるけど?」
「見せてもらっていいかしら?」
「めずらしい。忘れたのか?」
「そんなわけないでしょう。ただ、今日はわたしの列が当てられるから、日本史の得意なあなたと答え合わせしておこうと思って」
「なるほど」
そんな会話のキャッチボールを交わしつつ、机の中から課題のプリントを取り出し、鳥井に渡……そうとして、異様な気配に手が止まった。
その気配の出所は、ゲームやアニメならゴゴゴゴ! といった効果音が聞こえてきそうな形相をした聡だった。
「…………いつの間に」
「え?」
「いつの間にそんな仲良うなっとんねん!」
気配が爆発した……気がした。
「いや、普通だろ」
「普通ちゃうわ! ワイは今の今まで鳥井が自分から挨拶すんのを聞いたことないんやぞ?! それを課題の見せあいまでしてんのに普通や抜かすんはこの口か!」
俺としては至極まっとうなことを言ったつもりなのだが、どうやら聡のお気に召さなかったらしい。
見たことはないが、オリンポス山が噴火するとこんな感じなのだろうかと思わせる。もちろん、そんな呑気なことを考えている間も、聡の爆発は収まらない。
「こないだの人気投票でいきなり2位デビューの、しかもコメントのほとんどが氷みたいな冷たさを評価されとった鳥井をどうやって解かしてん!? 転入早々絶対零度が定着してんのに!!」
本人をすぐ横にしているというのに言いたい放題である。
しかし、いいように言われている鳥井は、転入してからの短期間で聡の性格とそのハイテンションに慣れたのか、表情が動かない。
もしかしたら、自分の認識下から聡の存在を消去しているのかもしれない…………と思ったが、
「……白河くん」
「……何だ?」
……どうやら俺の考えは的外れだったらしい。
言うなれば嵐の前の静けさか。
今度はきっと外れてない。何故なら、続く一言が容易に想像できたのだから。
(「――――黙らせていいかしら?」)
結果的に鳥井のその発想は未遂に終わった。予鈴と同時に雪ちゃんが教室に入ってきたからだ。
そうして今日も、昨日と同じ平凡な一日が始まった。
ところで、俺たちが通うこの黎明館学院には4つのコースがある。国立文系、国立理系、私立文系、私立理系だ。そして俺や鳥井が属しているのは国立文系コース。なので、数Ⅱ・Bや、化学や生物といった理系科目も必修科目となっている。
故に、今まさに黒板に羅列されていく数式をノートに写さないわけにはいかなかった。
数学はお世辞にも得意科目と言えない俺にとって、昼休み前のこの時間は一週間サイクルで繰り返される学院生活の中でワースト3に入る時間だった。
「ここはテストに出すからな。しっかり覚えておけよ」
体育教師になったほうがよかったのではないかと思えるほどに筋骨隆々とした腕で赤チョークを操り、今書いたばかりの例題を囲う。
それに倣って赤色のボールペンで写した例題を囲おうとしたまさにそのとき、左胸のあたりが震えだす。制服の内ポケットに入れたケータイのバイブレータだった。
少し前かがみになり、ノートを取るフリをしながらケータイを取り出す。サブディスプレイにはメールのアイコン。差出人は美咲。メールの内容は…………『お昼ごはん一緒に食べよ。鳥井先輩ともお話したいから、お兄ちゃんが誘っておいてくれる? それじゃ、勉強がんばってね♡』だった。
ディスプレイを見ながら、どうしたものかなと思案する。
クラスメイトを昼ごはんに誘う。それ自体は至って普通のことだろう。けど、相手が鳥井となれば話は別だ。朝のこともあるし、余計な注目を集めること必至に違いない。かといって美咲のメールを無視すれば、後でどうなるかは目に見えている。
仕方ない……と口内でつぶやき、昨日登録したばかりの名前をメモリーから呼びだす。最初のメールは感染者やウィルスに関することではなく、ありきたりなことだった。
授業が長引いたせいで、俺たちが学食に着いたときには、ほとんど空席が見受けられなかったが、混んでいると形容するほどでもないという状態だった。というより、学食――通称ラウンジの席数は確か学生全員分ほどあるので、一人で食事するのなら座れないという状態になることはまずない。これほどの規模だと、学食と言うよりカフェテリアやレストランと言ってしまったほうがいいような気さえする。
ちなみにラウンジと呼ばれる所以は、デザート等のメニューの種類の豊富さ――裏メニューも合わせると、ひょっとすると食事メニューより多いんじゃないだろうかと思える――と、ここが学院の休校日でも開放されているからだと、入学当時仲の良かった先輩に聞いたことがある。
加えて、一年生は入ることはできないといった不文律があるわけでもないので、まさにラウンジの名が相応しいと思わせる。
「お兄ちゃ~ん! こっちこっち~」
入口にほど近い席に陣取っていた我が妹は、俺たちを見つけて手を振っていた。
まだ何も注文していないのか、美咲の前には何もなかった。
「悪い。待たせ……ても別にいいか。美咲だし」
「ちょっとお兄ちゃん。待たせたのにそれはないでしょ。バツとして、今日の夕ごはん抜きだからね」
軽い冗談の応酬をしながら、美咲が座る4人用のテーブルに近づいていく。
そのテーブルには、なぜか聡もいる。
「遅すぎやろ。美咲ちゃんを待たせるやなんて、理事長が許してもワイが許さへんで」
同じ時間に終わったのになんでここにいるんだろう、こいつは。まあ、聡の神出鬼没は今に始まったことじゃない。気にするだけ無駄と言うものだ。
とりあえず席について、メニューを決める作業をするとしよう。
「今日は何を食べよっかな~♪」
「………」
メニューを繰る手にもゴキゲンさが窺える美咲と、淡々とページを進めていく鳥井が何とも対照的だった。
「決めた! 今日はプッタネスカにしよっと♪」
「ワイはツィゴイナー・シュニッツェルとヴァイツェンブロートのセットやな」
「わたしは……マリナータにしようかしら」
「俺はボロネーゼかな」
みんな決め終わったところで、テーブルに備え付けてあるボタンを押す。
数分も経たないうちに、制服に身を包んだ女生徒がやってきた。
ラウンジは基本的に学食委員会が運営しており、その委員会に属する生徒はここでウェイトレスやウェイターとして活動しているのだ。これも、高校らしからぬと言えばらしからぬ一面だろう。生徒による自立と自治と言えば聞こえはいいが、その実態は人件費の削減のためというのだから、やってられない。
ただ、学食のお試しメニュー優先権や、委員会価格でラウンジを利用できること。そしてこれが志望動機として一番多いらしいのだが、制服のデザインのおかげで入会希望者が後を絶たないらしい。
「お兄ちゃん? 何呆けてるの?」
「もうわたしたちは注文し終わったわよ」
「……悪い。俺はボロネーゼをスパゲッティで」
「はい。お支払はカードでいいですか?」
「ああ」
このラウンジでは二通りの支払い方法がある。
一つめは現金で払う方法。しかし、世間一般ではごく普通のこの方法は、この黎明館学院においてはほとんど見られない。
なぜなら、二つめの方法。つまり、カードで払う方法のほうが学院内では楽だからだ。
ちなみに、カードとは言ってもクレジットカードってわけではない。学院に属する生徒なら誰でも所持しているカード。つまりは生徒証だ。生徒証にはマイクロチップが埋め込まれており、そのチップに現金と引き換えにポイントをチャージし、そのポイントで支払いをするというわけである。
学院では出欠の確認に生徒証を使うので、生徒証を持たずに学院に来ることはまずないし、現金と違ってもし盗難があったとしても学院内でしか使用できず、なおかつ使用時に本人確認が為されるのだから、盗んだところで意味などないのである。
こういった理由で、黎明館学院では二つめの方法が主流になっている。
「では、お預かりします」
俺から受け取ったカードを右手に持ったポスに通す。
こうやってポイントを払って、あとは料理を待つだけである。
「それでは、料理をお持ちするまで少々お待ちください」
頭を下げて厨房へと向かって行くウェイトレスを見送ったあと、美咲が口を開いた。
「鳥井先輩。来てくれてありがとうございます」
嬉しそうな声のなかに含まれた、微量の不安の色。
美咲は自分より他人を優先するようなお人好しだから、鳥井に気を使わせたんじゃないかと気にしているのだろう。
「お礼を言われるようなことじゃないわ。それに、わたしも美咲さんとは話してみたかったから」
そんな性格を知ってか知らずか、笑顔で答える鳥井。
「ありがとうございます。それと、わたしのことは『美咲』って呼び捨てにしてください。さん付けされるの苦手なので」
「美咲さんがそれでいいのなら、これからはそうさせてもらうわ」
「はい!」
鳥井との距離が縮まったことが嬉しいのか、満面の笑顔を見せる美咲。
鳥井も、亡くなった妹のことを懐かしんでいるように見える。
「鳥井のヤツ、美咲ちゃんにはえらい甘ないか? まさか鳥井はそっちのケが?!」
と、そんな光景を目の当たりにしてあらぬ妄想を働かせるバカが一人。
時々、コイツの友達をやっている自分が疑問に思える。
「やらへんで! 美咲ちゃんはワイがいつかもらうんやからな!!」
テーブルを叩いていきなり力説しだす聡と書いてバカと読む生物。コイツ、ここがラウンジだってこと忘れてるんじゃないだろうな?
「お前なんかに美咲を渡すか」
言うが早いか、立ち上がった聡の左の脇腹に右ストレートを放つ。
「はぐぅ……」
変な呻き声を上げて、聡がテーブルに突っ伏す。
結構な手ごたえが右手に残っていた。久しぶりだったせいで加減を間違えたかもしれないな。まぁ、聡だから良しとしよう。
「あはは……また、始まっちゃった」
「いつもこんなことをしているの?」
「はい。一週間に一度くらいは必ず」
「なるほど。類は友を呼ぶ、とは言い得て妙ね」
止めもせずに苦笑を漏らす美咲に、呆れ気味の鳥井が応じる。
「ちょっと待て。聡と一括りにされるのは心外だぞ」
「そらないやろ! 白河なんかと一緒にすんなや」
「あはははははっ」
「ふふっ」
同時に反論した俺と聡を見て二人が笑いだす。
「あははっ。先輩の言うとおり息ピッタリ。恋人同士みたい。ね、先輩」
「ええ、本当に」
「勘弁してくれ……」
項垂れる俺を見て、聡までが盛大に笑いだした。
……お前が笑うなっつーの。
「いつ見てもこのテーブルは楽しそうだよね♪」
いつの間にか、テーブルの側にウェイトレスが立っていた。
「や。後輩諸君。元気に勉学に励んでるかな?」
学食委員会会長兼ラウンジ統括責任者の宮代葵先輩だった。
他のウェイトレスとは違ったデザインの制服に身を包み、元気満点の笑顔を浮かべている。少し茶色がかったセミロングの髪には、今日もチャームポイントであるリボンが揺れていた。
理由は未だに分からないが、俺たちを痛く気に入ってくれているらしく、ラウンジに来るとよくサービスしてくれたりする。
俺や美咲が弁当組じゃないのも、葵先輩が学食にいるからだった。
「基本的に強気に本気、無敵に素敵、元気に勇気な女の子! お祭り騒ぎが大好きなボクだけど、これでもウェイトレスの仕事には誇りを持ってるんだよ? ちなみに怪盗でもなければ神風でもないので悪しからず♪」とは本人の弁。
とは言っているものの、ウェイトレス服のまま俺たちと一緒に昼食を食べたりしているのだから、その誇り云々の行は疑わしいものである。
「食事は楽しく♪ がボクのモットーだからね」
……いや、そういう問題じゃないでしょう、先輩。
「あれ? 新顔発見! ボクが知らないとなると………………キミがウワサの鳥井深愛ちゃん?」
「噂のかどうかは分かりませんが、わたしは鳥井深愛です」
「なるなる。そりゃ~ウワサにもなるワケだ」
鳥井の周囲をくるくると行き来し、一人で納得している。
「ところで深愛ちゃん」
くるくるするのを止め、真剣な表情を作る先輩。
「キミってしーたんの彼女ちゃん?」
ズッコケた。
真面目な顔で何言ってんだこの人は。
「しーたん?」
「そ。しーたん」
これこれ、と俺の両肩に手を乗せる。乗せられている俺は、そのせいで首を動かせない。
けど、その表情は容易に想像できる。きっと、俺の頭の上で満面の笑顔でいることだろう、この人は。
「で。どうなの? どうなの?」
「……違いますよ、先輩。俺と鳥井じゃ釣り合いませんって」
「あら。わたしが彼女では不服かしら?」
「えっ!?」
「なっ!!」
「あらま!」
「………」
四人揃って驚きを隠せない。
それも当然だろう。
俺の否定に異を唱えたのは他の誰でもない鳥井だったのだから。
意外かと問われれば、間断なく意外だと答えるだろう。けれど、イヤかと言われれば、俺は間違いなく首を横に振ると思う。
鳥井のような美少女にそう言われて、嬉しくないはずがない。
「これはなかなかどうして脈アリ気配? 料理もタイミングよく届いたみたいだし、ゆっくり話を聞かせてもらういいチャンスじゃない♪」
言われて初めて料理を運んできていたウェイターに気がついた。
「それじゃ、失礼して…………あれ? ボクの座る場所がないじゃない!?」
いつも陣取っているこのテーブルは四人席。
普段なら俺と美咲と聡の三人に葵先輩が加わって四人席が埋まる形だ。しかし、今日は鳥井が一緒なので最初から席が埋まっていた。当然のことながら先輩が座る場所なんてあるはずがない。
「ボクを話に入れない気!? しーたん反抗期!? それとも先輩イジメ!? ひょっとしてボクのことキライになったとか!!」
分かっているのに大げさに騒ぐ先輩だった。
「……っていうか葵先輩。さっきから物凄い目で睨まれてますよ?」
美咲が指差す方向には、痩身にウェイター服を纏った眼鏡の男性がいた。眼光鋭く、視線だけで人が殺せそうである。
「ヤバッ! 今日はユーヤもラウンジ担当だった。ツいてないな~……」
ユーヤと呼ばれた男性は学食委員会の副会長であり、葵先輩の幼なじみでもあり、彼氏でもある藤吉悠夜先輩その人である。ことあるごとに先輩を怒っている姿をよく目撃されるので誤解されがちだが、それはあの人くらいしかこの学食で先輩の行動を止められる人がいないからなだけなのだ。実際学食以外の場所、例えば校外などでは仲睦まじい二人を見ることもできる。
「ご愁傷様やな。葵センパイ」
「くぅ~……。仕方ない。今日は大人しく引き下がりますか~」
未練タップリの一言を残して、葵先輩はとぼとぼ厨房へと歩いていった。
「相変わらずやな、センパイも」
「だね。それより……。鳥井先輩!!」
美咲の目がキラキラしている。あれは自分の興味を大いにそそるものに巡り会ったときの目だ。今回はきっと……。
「お兄ちゃんと付き合うんですか!?」
やっぱりな。
「確かに気になるな。ワイはてっきり全力で完全完璧真っ向否定するモンやと思うとったけどな」
そこは俺も気になるところだった。まさか自分の発言を否定されるとは思ってなかったからな。
「ああでも言って冗談ではぐらかさないと、いつまでも追及が続くと思ったから」
三者三様の期待に反して、鳥井はやっぱり鳥井だった。
「残念。鳥井先輩だったらお姉ちゃんって呼びたかったのに~。やっぱりお兄ちゃんじゃ論外かぁ」
「当然っちゃ当然やな」
……お前ら。自分のことじゃないからって好き勝手だな。
「わたしは恋愛には興味ないから」
そんな好き勝手な会話を締めくくったのは絶対零度な返答だった。
chapter-2