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 何かに呼ばれた気がして、俺は後ろを振り返った。しかし、そこにあるのは影絵の世界と見紛うような住宅街だけ。それ以外に目につく物は何もない。誰もいない。

 

 …………誰も、いない?

 

 そんなはずはない。だって……

「なぁ、たま――」

 言葉は途切れ、最後まで紡がれることなく落ちていく。

 そこに、となりにいたはずの騒がし娘の姿はなかった。俺を除いた総ての存在が一瞬にしてかき消えたかのようだった。

「…………これが夢幻世界(ファンタズマゴリア)、なのか?」

 昏く沈んだ世界をぐるりと見渡す。

 ある程度冷静でいられるのは、鳥井に殺されかけたおかげだろうか。もしあの経験と、鳥井から聞いた情報がなかったら、パニックになっていただろう。

 

 そして、夢幻世界の内にいるというのなら、何かが聞こえた気がした方向にいるのはおそらく……。

 

「俺には関係ない……」

閉じた瞼の裏に浮かぶのは美咲の笑顔。

掌に食い込む痛みは、あの日の千分の一もありはしない。

「……関係、ない」

あの日に誓ったことを覚えている。

大切な妹を二度と傷つけないと。

「…………ない、はずなのに」

それなのに、どうしてこれほど気になるのか。

分からない?

いや、本当は分かってる。鳥井のあの瞳。俺が心底、二度と見たくないと思っていた瞳。

だから、気づいた。気づいてしまった。

「くそっ!」

 駆け出す足は、家とは違う方向に。流れる景色は少しずつ速度を上げる。脳裏によぎった光景は一瞬のうちに消え去った。

 

「はぁ……はぁ……」

 影絵の世界はその闇の度合を増しつつある。喉に絡みつく空気も、普段感じるそれより重い気がする。

 それでも、走ることは止めない。

 一度目の遭遇のとき、俺は理由も分からず逃げ惑った。

 二度目の会話のとき、その瞳に気圧されて踏み込めなかった。

それはきっと、過去から逃げたかったから。俺が犯した過ちを、もう一度目の前に突きつけられるのが怖かったから。

 

けれど……

 

「鳥井ッ!」

 今度はもう逃げない。

そう。過去は変えられない。過去は受け入れるものだから。けど、今は変えることができる。だから、俺はもう逃げない!

「その声! 白河くん!?

 公園の中央、モニュメントのあるところから反応が返ってくる。

 けれど、声はすれども姿は見えない。何かがモニュメントの周りを囲んでいるせいだ。

「逃げて! 早く!!

 声に反応したのか、“ヒトに見える何か”が一斉にこっちを向いた。その数は……数えたくない。ゆらゆらと、そのうちの数体が向かってくる。

 俺は箒を剣に見立てて構えた。何もないよりはマシだと思い、ここに来るまでに拝借してきたものだ。

「逃げれるワケないだろ!! 目の前に友達がいるんだぞ! そんな状況で、それも囲まれてる張本人に言われて頷けるか!」

 身体の震えをごまかすように、俺は声を張り上げる。ここで逃げたら、今までと何も変わらない。

「いいから逃げて! 死にたくないでしょ!?

 鳥井の言葉は苛立ちと焦燥感で満たされていた。

 それを聞いて、俺はこれ以上ないくらいに苛立った。

「らあぁぁぁぁっ!」

 思いきり振りかぶった箒を、先頭のヒトモドキの肩口に全力で振りおろす。

 がつっ、と固い感触が手に伝わってきたすぐあとに、そのヒトモドキはタールのようになって、芝生の上に黒い水たまりを作った。

 そのまま立て続けに二体目、三体目と水たまりに変える。

「俺は逃げねーぞ。人一人犠牲にして、それで生きてても嬉しいわけないだろ! もうそんな思いはたくさんだ。たくさんなんだよ! お前だって知ってるんだろ!? それがどれだけイヤな思いかを!!

「どうして……」

「知ってるなら逃げんな! 誰かのために死に逃げんな!!

「……ッ!」

 これだけカッコつけたんだ。やってやる。

 箒を構えなおして、囲いに突っ込む。剣の使い方を知らない俺の描く軌跡は、お粗末なものだろう。

けど、敵が多いおかげでなんとか当てることはできる。振るうほどに、黒い水たまりはその面積を広げていく。

この調子ならと、そう思った矢先に体が傾いた。

 黒い水たまりに足をとられたのだと気づいたときには、身体はすでにその中に倒れこんでいた。

「くそっ!」

 粘着性の高いそれは、まるで意思があるかのように倒れた俺を絡め捕る。そんな状態の俺は、ヤツらにとってはいい獲物にしかならない。

 複数で俺を取り囲むヤツらに表情はないけど、嗤っているように見えるのは気のせいなのか。その表情に危機感を覚えれば覚えるほど、俺の身体は動けなくなる。

 濃密な悪意の塊が、後から後から増えてくる。地面から這い出てくる。悪意の包囲網がその輪を縮めていく。

 

「しっかりしなさい!」

 

 声と同時に、囲いの一角が消し飛んだ。そこから鳥井が俺のいるところまで走ってくる。

「逃げるわよ。ここじゃ、わたしたちが生き残れる可能性は少ないから」

 手を掴まれ、無理やり立ち上がらされる。そして、鳥井は大鎌を一閃してから走り出す。

 左手は俺の手を掴んだまま、右手だけで長大な鎌を左右に奔らせ、獲物の逃亡を食い止めんとするヒトモドキを消していく。

「死にたくなければ速度を上げなさい!」

 一瞬だけ後ろを振り返った鳥井が声を上げる。ヒトモドキが追ってきているのだ。

 それまで掴んでいた手を離し、鳥井はさらに速度を上げる。俺も、アスファルトを蹴る足にさらに力を込める。

 けれど、さすがに数が違いすぎる。一体ずつの速度は遅いが、あれだけ好き勝手に増えられたら速度なんて関係なくなる可能性が高い。どうにかしないと!

「鳥井!」

 俺は前を走る背中に追いつき、並走する。

「喋る余裕があるなら足を動かして!」

「あいつらはどこでも好き勝手に増えるのか!?

 鳥井の要求を無視し、言葉を続ける。もしこのまま好き勝手に増えるのなら、逃げ場なんてなくなってしまう。

「そんなことより今は足を――!」

「いいから答えろ!!

「増えないわ! あれだけ増えたのはあそこが悪夢溜まりだったからよ! 悪夢溜まり以外ではあんなに増えることはないわ!」

 悪夢溜まりがなんなのかは分からないが、好き勝手に増えないのは確かみたいだ。頭に浮かぶのはこの近辺の地図。それならいけるかもしれない。

「曲がるぞ!」

 一歩先に出て細い路地に飛び込む。細い道ばかり選択していけば、大軍のあいつらには辛いはず。知性らしきものも窺えなかったし、出口を塞ぐようなこともしてこないはずだ!

 

 

「はぁ……はぁ……ふぅ」

 コンクリート造りの住宅の塀に手をつきながら、息を整える。

 あれからいくつもの路地を通り抜け、ヒトモドキの大軍をなんとか振り切った。いつの間にか夢幻世界も消えていたが、全力疾走のせいか、二人とも一度止まったところから動けないでいる。

「何とか……助かったな」

 塀についていた手を離し、代わりに背中を預ける。夜の冷気で冷えたコンクリートが、身体の内に籠った熱気を急速に払っていく感じが心地よかった。だが安心したためか、すぐには回復しそうもない疲労が重く圧し掛かってきた。

 それは鳥井も同じらしく、顎を落として荒い息を繰り返していた。

 

それにしても、かなりの時間走っていたはずなのだが、現実世界ではたった15分しか経っていなかった。鳥井の話を疑っていたつもりはないけど、今回のことではっきりと認めさせられた。あれが鳥井の作り話でもなんでもなく、現実に起こっていることなんだということを。

「――――どうして」

「……え?」

 疲れた頭でそんなことを考えていたせいか、鳥井の口から発せられた言葉にすぐに反応できなかった。

「どうして、来たの」

 問いかけとういよりは、むしろ責といったほうが正しいくらいのきつい言葉。おそらく、自ら危険に首を突っ込んできたのが気に入らないんじゃないだろうか。

「……さぁ、な」

そんなことを訊かれたところで俺も漠然とした理由しかないし、その理由も俺の口から言えば鳥井の怒りを買いそうなので言わないことにする。

「まさか、何も考えないで来たわけでもないんでしょう。言いなさい」

「………」

まぁ、考えなしだった部分も多分にあるけど、答えないのは別の理由だということを察してほしい。

「聞こえないのかしら? わたしは理由を答えなさいと言ってるの」

 俺のささやかな親切心はどうやら伝わらないらしい。

とは思うが、それが普通か。本人が隠しているつもりになっているものは、指摘されるまでそれが隠しきれていないということが分からないのだから。

 ここまで来たなら一蓮托生……とは違うな。毒を食らわば皿までか。

 逃げないと決めたときよりも、さらに固く決意を固める。今から言うことは、きっと鳥井の心に土足で踏み入ること。鋭利な刃物で切り裂くことと同意。これに比べたら、さっきの決意なんてどれほどのものか。

 自分の足で自分を支え、鳥井の正面にしっかりと立つ。そして、鳥井の瞳をしっかりと見据え、言葉という凶器を放つ。

「嫌いだったから。お前の瞳が」

「それは、ふざけてるのかしら?」

 ピシッと、空気が鳴った気がした。

「ふざけてない。それが理由だ」

「……本当の理由を答えなさい」

「はっきり言わないと分からないのかよ。あの瞳は誰かの死の上に生きてきたことを理解してる人間の瞳だ。ずっと後悔して! それが苦しくて! 死にたくて仕方ないって瞳だ!! 大ッ嫌いなんだよ!! だから行ったんだ! お前を助ける義理なんてなかったさ! でもな、俺はあの瞳をしたヤツがどうなったか知ってるから助けたかった! 自分の命に価値はないって決めつけて、いつだって誰かの命と自分の命を秤に掛けて!! 

さっきだってそうだろ! 俺を逃がそうとしたのも本心だろうさ! けど、あのとき自分はこれで死ねるって思ってただろ! 俺を生きて逃がすことで、自分は死に逃げれるって思っただろ!! ふざけんな!! 誰かの死の上に生きる苦しさを理解してるヤツが! その十字架の重さを知ってるヤツが! 誰かに自分の死を背負わせようとすんな!!

鳥井が背にするコンクリート塀を渾身の力で殴りつける。感じる痛みは、きっと鳥井が感じる痛みに遠く及ばない。

下を向いている鳥井の表情は、前髪に隠されて窺いしれない。かろうじて見えた口許には、赫い血が流れていた。震える身体は、怒りに戦慄いているようにも、痛みに耐えているようにも見えた。

「……ってるわよ。そんなこと、あなたに言われなくても分かってるわよ!! でも、だからってそれ以外にどうすればいいのよ! 教えてよ!! どうすれば死に押し潰されないですむのよ?! お母さんの悲鳴が耳から離れないの! お父さんの血の感触が拭えないの! 望愛(のあ)の顔が目に焼き付いて消えないのよぉ!! ねぇ……おねがいだからおしえてよ……。どうすればいいの……どうすれば立っていられるの……? おねがい……だから……」

 最初のうちは力任せに俺を殴っていた鳥井だったが、いつの間にか大粒の涙を零しながら泣いていた。俺のコートを両手で握りしめて。

 俺が鎧った決意は、鳥井の慟哭で粉々になっていた。悲痛な叫び声は、無責任な言葉を振りかざした俺を抉る槍のように。

けれど、俺が知ってるヤツ以上の哀しさを抱えた少女にかけられる言葉を今の俺が持っているはずもなく、ただその慟哭を受け止めることしかできなかった。





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