chapter-1

「おはよう、お母さん、お父さん。今日もいい天気だよ」

 着替えを済ませて自室からリビングに降りてくると、写真に話しかける美咲の声が聞こえてきた。

「絶好の洗濯物日和だよね」

 俺たちには両親がいない。

父さんは美咲が生まれた二年後に、交通事故で亡くなったと聞かされた。当時俺は三歳だったから、まったくと言っていいほど父さんのことは覚えていない。唯一覚えているのは「お前はお兄ちゃんなんだから、美咲のことを大切にするんだぞ」という言葉だった。毎日のように言われていたからか、これだけはしっかりと覚えていた。当然美咲も父さんのことは覚えていない。それでもほとんど寂しさを感じたことはなかった。母さんは明るい人だったし、俺たちのことを父さんの分まで大切にしてくれていた。そんな母さんも、俺が中学校に入学した、その年の夏に亡くなった。

以来、俺と美咲は二人で暮らしている。親戚らしい親戚もいなかった俺たちには頼れる大人もいず、二人で生活していくしかなかったのだ。

不便なことも当然のようにあった。それこそ、積み上がること山の如しだ。まず問題になると思ったのは生活費だったのだが、これは総合病院の経営者だった両親がかなりの遺産を残してくれたおかげであっさりクリアできた。しかし、いくら父さんたちが残してくれた遺産が多額だからといって、自分たちの個人的なことに使うのは申し訳ないので、自分たちが自由に使うためのお金は自分たちでアルバイトして稼ぐことにしている。

数多あった問題の中で一番問題だったのは生活それ自体だった。母さんが生きていたときから、できることは兄妹で分担してこなしてきたつもりだったが、二人で『生活』するのは、二人で『手伝い』するのとはわけが違った。炊事洗濯はもちろんのこと、掃除に町内会の仕事、いろんなことを自主的にやるだけで、てんてこまいだった。それだけで休日を丸一日潰したことも、暮らし始めにはよくあった。

 今はもう、二人きりの生活にも慣れたものだった。それこそいろんな意味で。

 

「おはよう、美咲」

 美咲が話し終わるのを待って声をかける。

写真に話しかけるのは美咲の日課だ。それを知っている人の中には馬鹿なことだと言う人もいるが、美咲はこの日課を止めることはない。

俺も、止めさせたいとは微塵も思わない。それがその人にとって大切なことなのだから、無理に止めさせる必要なんてどこにもないと思う。

「おはよう、お兄ちゃん。今日はしっかりネクタイも締めてるね。うんうん。お兄ちゃんはそれなりに背が高くて、それなりに顔もいいんだから、ちゃんとした格好をしてたらそれなりに格好いいんだよ」

「それなりそれなりうるさいっての。バカなこと言ってないで、さっさと朝ごはん食って学院行くぞ」

「は〜い」

 

                    †

 

「おはよう、白河」

「ああ、おはよ」

 登校してきた教室内。小波に似た朝の喧騒はいつもどおり。その中で声をかけてきたクラスメイトにおざなりに返事を返し、俺は自分の席に腰を下ろした。

昨日の夜は久しぶりの全力疾走のせいか、はたまた極度の緊張状態で精神が疲弊していたせいか、ベッドに潜りこむとすぐに寝入ってしまった。そのおかげか、昨日の異質と言えばあまりに異質すぎる出来事を深く考えずにすんだ。原因から逃れるために取った行動が、結果的に原因を追究しない要因になってくれたことは、皮肉と言えるだろう。

 

「どないしたん。白河?」

 俺が窓の外をぼうっと見ていると、後ろから言葉が投げかけられた。

「……べつに。ただの睡眠不足だ」

 振り向かないまま、適当に返事を返す。

 急に頭の後ろから聞こえてきた声は、同じクラスの神谷聡(カミヤ サトシ)のものだった。聡は小学校のころから同じ学校で、俺にとって数少ない親友と呼べる存在だ。ちなみに、こいつは生まれも育ちも関西ではないのに、関西弁をあやつるエセ関西人である。

『神谷聡』。こいつは一言で表すと馬鹿者だ。もしくは大馬鹿者だな。

何故かっていうと、事ある事に人の妹をつけまわすストーカーだからだ。

なまじ昔からの付き合いがあるから、美咲と一緒に帰ってるとその間に割り込んでくるわ、他人様の家には勝手に上がりこむわ、挙句の果てには美咲と一緒の学年になるために、本気で留年しようとしたほどだ。

後期試験のすべてのテストを白紙で提出し、担任に呼び出されたときに言った言葉が『来年入学してくる白河美咲ちゃんと一緒の教室で勉強したかったからです!』だ。

大馬鹿者以外の何者でもない。当然職員室中の教師があきれ返り、その騒ぎのせいでこの学院では留年制度がなくなったくらいだ(これはデッドラインギリギリの生徒には大変喜ばれたともっぱらの噂だが)。

ちなみにその留年作戦は、今現在俺と一緒の教室にいるという事実が示すとおり、もちろん失敗している。

「白河。お前、妙なこと考えてへん?」

「考えてない」

 事実なんだから妙な考えではない。無論その事実が妙であるかどうかは別問題だが。

 実際接してみるといいやつなんだけどな、こいつも。……美咲に関することを除いて、だが。

 

「そんなことより、や。白河、ワイらも職員室行かへんか?」

 唐突に聡の口から飛び出したのは、健全な学生にあるまじき言葉だった。当然、健全な学生である俺と聡は、何かの理由で呼び出された時以外職員室に自ら赴くことはない。そんな不文律を破ってまで赴きたくなるほど、一日で職員室が面白い場所になるわけもない。というより、一日で面白い場所に様変わりしているなら、それはもはや職員室とは呼べはしないだろう。

「というわけで、行かないに決まってるだろ」

「何が、『というわけ』なんか分からへんけど、行かんと後悔するかもしれへんで? 教室をよう見てみい。男子のほとんどが行ってるんやで?」

 確かに言われてみれば、女子に比べて男子の数が少ない。部活動の朝練に勤しむクラスメイトたちを除いても、これは少なすぎだ。いつもならもっと人数が揃ってるはずの時間帯なのだから、この状態はある種異常とも言えた。

「後期試験の結果が悪くて集団呼び出しとか?」

 ちなみに俺達が通うこの『黎明館学院』は、この地域ではそれなりに名の通った学校である。『次代の夜明けを導く若者の育成』を教育理念とし、進学にもスポーツにも力を入れている。

 生徒は明るく規則正しい。教員は頭の良さもその人柄も尊敬できる。運動部のいくつかは全国大会にも出場経験がある、と。

まぁ、これは外から見た学院の印象であって、内部に入るとまた別の面があるのは至極当然のことだ。

 生徒は余所よりも多少規則正しく見えたとしても、そこは年頃の少年少女、外では少なからず猫を被っているのが実情だ。成績が悪ければ当然呼び出しだって普通にあるし、もちろん試験のたびに、ほぼ固定されたメンバーが補習や追試を課せられている。授業中の携帯の使用は禁じられているが、密かにメールしてるやつだっている。中にはタバコをんでいるやつすらいる。

 教員だって、頭の良さを鼻にかけて詰ってくるようなやつもいれば、昔ながらに鉄拳制裁を肯定している者もいる。

 スポーツに至っては特待生として近隣県の有能な選手を集めてくるのだから、強いのは当然だろう。

 こういった具合に、外から見ている者と学院に属する者とでは、かなり学院に対する印象が違っている。

 

「んなわけあらへん。みんな転入生を見に行ってんのや」

「ああ。そういえば」

 聡に言われるまですっかり忘れていた。一週間程前に、担任である雪ちゃんが言ってたっけな。どうやら自分にとって関係ないことだったから、すぐに脳内メモリーの不要データ群の中に放り込まれたらしい。

だいたいこんな時期に転入してくるやつがマトモなやつなわけがない。どうせ、前に通っていた学校で問題でも起こしたんだろう。

「興味ないっちゅう顔しとるな」

「当たり前だろ。転入生がこのクラスに来たところで俺には何の関係もないんだから」

 それにしても物好きなやつが多いクラスだ。どうせ朝のSHRで嫌でも会うことになるだろうに、わざわざ無駄な労力を使わなくてもいいと思う。

「それやったら、とっておきの情報を教えたろ! これを聞けば男なら誰でも見に行きたくなること請け合いやで!」

 転入生にまったく興味を示さないことに業を煮やしたのか、聡が俺の机に両手を叩きつけて身を乗り出してくる。って、近すぎるっつーの。

「なんと! 転入生を見に行ったやつの話によるとやな。美咲ちゃんに勝るとも劣らん逸材らしいで。今度の裏人気投票では美咲ちゃんの連続優勝が途切れるかもしれんほどらしいわ」

「だから?」

 ほんとに、だから何だというのだろう。美咲は確かに可愛いとは思うが、毎日嫌になるほど顔を合わせてるんだ。みんなが騒ぐほど可愛いのかと言われれば、俺は首を横に振るだろう。裏人気投票で一番人気なのも聡から散々聞かされてるから知ってはいるが、それも人気投票自体に興味のない俺からしてみれば眉唾ものだ。

「ほんまに、人は自分が恵まれてることには気付かんもんやな……。こんなやつの妹やなんて、美咲ちゃんもホンマかわいそうやで。ワイが兄貴やったら24時間365日ずっと一緒にいたんのに……」

いや、それは普通にウザイだろ。

「とにかく、や! そんだけ可愛いっちゅうこっちゃ」

 聡はそれだけ言い残して、俺の席から離れていった。あいつはどうしてあんなにハイテンションのまま生きていけるんだろう? 俺からしてみればあり得ないな。

 

 それは、まあ置いておくとして。

「転入生、か」

 口ではああ言ったものの、俺もそれなりに興味はある。健全な男子学生なのだから、女子、それも特別可愛いと聞けば気にもなる。どんなやつなんだろうな。





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